20歳でデビュー後、アルバム『TOUCH AND GO』の制作や名だたるアーティストへの楽曲提供を行ってきた角松敏生(かどまつ としき)さん。
シンガーソングライターやプロデューサーとして、音楽業界で長く活動を続けています。
白亜の立派な自宅スタジオで作業しているようですが、スタジオが吉祥寺にあるという噂は本当なのかチェックしましょう。
また気になる年収、よく比較される山下達郎さんとの違いとミュージシャンとしての評価を確認します。
角松敏生のプロフィール
別名義:長万部太郎
本名:角松敏生
生年月日:1960年8月12日
身長:169cm
出身地:東京都渋谷区代々木
最終学歴:日本大学文理学部哲学科
所属事務所:エメラルドスプラッシュ、ビーンズ
角松敏生の自宅スタジオは吉祥寺にあるか不明
角松さんの自宅スタジオの場所を確認しましょう。
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— 角松敏生_OFFICIAL (@kadomatsu_info) April 26, 2020
ネット上では自宅スタジオが、東京の多摩地区・吉祥寺にあるという噂が流れています。
確認したところ、自宅スタジオの正確な場所は不明で、吉祥寺にあるとは断言できませんでした。
ただ吉祥寺近くの武蔵野エリアにあることは明かされています。
国分寺や東村山など、中央線沿いの都心にアクセスしやすいエリアにある可能性が高いですね。
自宅スタジオは2011年に新築された白亜の立派な建物です。
仕事部屋はエントランスから入って廊下を進んだところにあります。
部屋には2台のコンソール、キーボードなどの機材、今では珍しいアナログシンセサイザーなどがところ狭しと並んでいます。
角松さんは極めてプライベートなこの空間で、2023年現在も曲作りに励んでいるのです。
メインスタジオの右側には、ボーカルとギターの録音ブースがあります。
2階以降は自宅スペースのため、オンとオフの切り替えに最適な居住空間ですね。
角松さんは「今のスタジオで仕事をするようになってから、音楽作りに集中できるようになった」と語っています。
2014年には20分超の曲『The Moment of 4.6 Billion Years』を含む大作アルバム『THE MOMENT』を制作しました。
#nowplaying #nariplaying: "The Moment of 4.6 Billion Years ~46億年の刹那~" from "THE MOMENT" (2014年) by 角松敏生
初見の時インスト曲かと思ったら、途中で歌い始めたからびっくりしたやつ。 pic.twitter.com/vbcZFBOK7Y— なり (@N_inst99) October 18, 2021
衰えを知らない角松さんは、曲作りに専念できる環境で、ますます精力的に仕事を続けているのです。
角松敏生の年収は推定数千万円
長年音楽活動を続けている角松さんの年収は、いくらくらいなのでしょうか。
年収は公表されていないため、これまでの活動から推測してみましょう。
シングル『YOKOHAMA Twilight Time』および『SEA BREEZE』でデビュー以来、シンガーソングライターとして活躍。
自分の名義で数々の楽曲を発表し続け、2023年現在までツアー活動を継続してきました。
さらに杏里さん、中山美穂さんら有名アーティストのプロデュースも行っているため、収入源は複数あるということになります。
ただCDが飛ぶように売れていた1980~90年代に比べると、今はあまりCDが売れなくなったそうです。
以前はレコード会社と大衆を満足させるための曲を作っていましたが、今は商業路線ではなく自分の作りたい曲を作っています。
大衆の好みに迎合しない作品を作っているのですから、CDの売上が落ち込んだのは当然なのです。
ただCDの売上以外にも、ツアーやプロデュース業による収益がありますから、高額な年収を稼いでいるのではないでしょうか。
億単位には届かないものの、例年数千万円ほどを稼いでいる可能性が高いですね。
角松敏生は山下達郎より低く評価されてきた
角松さんは山下達郎さんとよく比較されます。
達郎さんの方が年齢は約ひと回り上で、角松さんがデビューしたときには、すでに大物としての地位を確立していました。
両者は曲の雰囲気が似ており、結果的に「角松は達郎のコピー」と言われてしまうのです。
すでに同じ路線の大物が存在していたことで、角松さんの評価は低くなってしまいました。
ただその実力は、吉田美奈子さんや村上ポンタさんら、多くのミュージシャンに認められます。
彼らとセッションをすることで、何とかミュージシャンとしての地位を確立していきました。
また角松さんは達郎さんの路線を土台としながら、必死に独自の路線を模索するようになります。
角松敏生や山下達郎を聴いていると徹底的な模倣と工夫が最大のオリジナリティを生むことを痛感する。ポップスの歴史はその繰り返し…
— Lo-Fi Club (@kukkuru) July 29, 2020
1984年に発表したアルバム『After 5 Clash』は、独自路線を確立した証とされてきました。
達郎さんの曲とは異なる都会的なフレーズの曲を作り上げ、ついに「脱山下」を成功させたのです。
角松さんのことを「自分のコピー」と評してきた山下さん。
発言の裏には「先輩を目指すだけでなく、自分の個性を発揮してみろ」という励ましのメッセージも込められていたのかもしれません。
角松さんは先輩のメッセージを前向きに受け止め、独自路線の確立に成功したのでしょうね。
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