デビュー以来、妥協を許さないスタンスとハイクオリティな作品群が時代を超えて支持されてきた角松敏生(かどまつとしき)さん。
今やJ-POP界の大御所といえる存在ですね。
今回は2023年現在の音楽活動、気になる病気の噂、若い頃の意外なエピソードについて取り上げます。
また、今なおスタンダードナンバーとして人気のある杏里さんや中山美穂さんのヒット曲を世に送り出した名プロデューサーとしての顔にも迫ります。
角松敏生のプロフィール
別名義:長万部太郎
本名:角松敏生
生年月日:1960年8月12日
身長:169cm
出身地:東京都渋谷区代々木
最終学歴:日本大学文理学部哲学科
所属事務所:エメラルドスプラッシュ、ビーンズ
角松敏生の現在
2021年にデビュー40周年を迎えた角松敏生さん。
40周年記念ツアーは12月まで続きました。
角松さんのライブといえば、『TAKE YOU TO THE SKY HIGH』という曲で観客が紙飛行機を一斉に飛ばす恒例行事が有名ですが、この伝統がコロナ禍の影響で絶えておよそ2年。
曲中で「スカイ・ハイ」というフレーズがででくるたびに、色とりどりの紙飛行機が舞うさまは壮観でした。
今回のツアーでも、当然ながら各会場から紙飛行機禁止令が出されていたそうです。
ところが、ダメもとでかけあってみたところ、条件付きならOKという回答が一部の会場からあったそう。
その条件とは、紙飛行機の持ち込み禁止、主催者側が用意した紙のみ使用可、人が飛ばした紙飛行機を拾って再度飛ばさない、など。
こういった感染防止対策の規制には、まず「人が集まる場所で、はしゃいではならない」ということが根底にあります。
J-POPのコンサートで「はしゃいではだめ」と言われても観客は困りますが、会場や主催者側は感染防止のために神経を行き届かせなければなりません。
ツアー2日目塩尻市文化会館レザンホールも無事に終了しました。紙飛行機の🆗を頂き舞い散る紙飛行機。 pic.twitter.com/QpMtoJO40x
— 角松敏生_OFFICIAL (@kadomatsu_info) November 7, 2021
観客が童心に帰って楽しそうに紙飛行機を飛ばしている姿をステージから見るたびに、「ああ、今日も平和だ」と感じていたという角松さん。
ファンとステージが一体になれるライブの復活に向けて、いまだ試行錯誤が続いているようです。
角松敏生に病気の情報はなし
幼少時代はぜん息の持病があり、学校でいじめられることも多かったという角松敏生さん。
しかしギターの練習をはじめてからはいじめはなくなり、逆にクラスのスター的存在になって、やがてぜん息も治っていったそうです。
ネット上には病気ではないかという気になる噂がありますが、特に病気の情報はありません。
精力的にライブをこなしている活動状況をみるかぎり、心配はないと思われます。
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いよいよ来週から#角松敏生 3カ月連続特集をお届け!
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貴重なライブ映像のラインナップについて語った
本人コメント映像も到着‼️8/12(木)は60歳のバースデーライブを放送🎤
最新ライブと併せてお楽しみに✨ラインナップ詳細はこちら⇒https://t.co/7WkKnhFUWl#WOWOW@kadomatsu_info pic.twitter.com/xkn2Ut9dMn
— WOWOW MUSIC (@wowow_mj) August 5, 2021
若い頃にくらべて痩せたのは明らかですが、病的な痩せ方には見えず、スッキリした感じですね。
50代で娘が誕生し、娘が成人するまでは引退できないので、もうひと花咲かせたいと気炎を上げていることから、健康管理は徹底しているのではないでしょうか。
角松敏生の若い頃のエピソードいろいろ
角松敏生さんは日本大学在学中にデビューし、大学には8年間在籍していました。
文理学部哲学科だったこともあり、若い頃のライブでは説教じみたMCや観客との口論もめずらしくなかったそうです。
後年、ご本人は「若気の至り」と反省。
また、意外なことに当初はユニットとしてデビューする計画もあったそう。
デュオの相方として想定されていたのは元レイジーのポッキーこと井上俊次さんでした。
レイジーは70年代に一世を風靡したロックバンドで、アイドル的な人気も絶大だったスーパーグループ。
井上さんはレイジー解散後もトライアングルプロダクションに残留しました。
藤田社長の提案で、角松さんと井上さんは1週間ほど共同生活。
井上さんいわく、角松さんは赤いブルーバードを駆って「ポッキー、海に行かない?」とのん気に誘ったとのこと。
まもなく井上さんは「彼とは組めません」と社長に告げたそうです。
井上さんの目には、音楽より遊びに熱心な大学生と映ったようですね。
一方の角松さんはソロ活動を希望していたため、もしかしたらこれは作戦だったのかもしれません。
あのまま自分と組んでいたら、今のような成功はなかっただろうと井上さんは語っています。
杏里と中山美穂をプロデュースして大ヒットを記録
シンガーソングライターとしての活動とともに、コンポーザー、アレンジャー、プロデューサーとしての評価も高い角松敏生さん。
その手腕が発揮された代表的なアーティストとして杏里さんと中山美穂さんが挙げられます。
杏里の『悲しみがとまらない』をプロデュースして大成功
杏里さんとは、彼女のラジオ番組にゲスト出演したことで意気投合。
以降、楽曲提供やプロデュースを手がけてきましたが、特筆すべきは『悲しみがとまらない』でしょう。
『CAT’S EYE』で大ブレイクした直後の杏里さんの新曲プロデュースを依頼された角松さん。
真価が問われるタイミングでした。
失敗したら、彼女に「一発屋」のレッテルが貼られてしまうかもしれません。
自分の作品テイストでは大衆ウケはしないとふんだ角松さんは、注目していた康珍化&林哲司コンビに作詞作曲を頼み、自身はアレンジとプロデュースに回ります。
康さんには「恋人を女友だちに取られた話」、林さんには「モータウン風」とオーダーしたそうです。
この「悲しい歌詞なのにノリノリの曲」という作風は女性たちのハートをくすぐり、『悲しみがとまらない』は大ヒット。
セールス的なハードルをクリアして、胸をなでおろしたそうです。
角松敏生とのコラボで中山美穂がアイドルから脱皮!
中山美穂さんへの楽曲提供・プロデュースは彼女からの指名でした。
角松敏生プロデュースによる杏里さんの『Bi・Ki・Ni』がお気に入りだった中山さん。
まだ10代のアイドルである中山さんを大人の女性のイメージに変えようと思いながら曲づくりをしたそうです。
『You’re My Only Shinin’ Star』はオリコン1位に輝いただけでなく、日本レコード大賞の金賞を受賞して彼女の代表曲に。
ファンの間でも人気が高い曲ですね。
角松さんが何よりうれしいのは、中山さんがこの曲を気に入って大切にしてくれ、ライブでも頻繁に披露してくれていることなのだそう。
角松敏生さんとの仕事が彼女にとって歌手としての転機になったのは明らかです。
J-POPシーンにおいて、自身のサウンドをストイックに追求し続けている角松敏生さん。
娘が成人するまでと言わず、そのさきも息の長い音楽活動を期待したいですね。
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