音楽評論家や作詞家として60年以上活動してきた湯川れい子(ゆかわ れいこ)さん。
今回は湯川さんの知られざる家族と結婚の情報をまとめます。
息子、夫、戦死した兄の詳細を確認。
さらに50年近く闘っていた病気であるC型肝炎の詳細に迫ります。
今夜のコンビニ・スウィーツは、『かりんシュー、かりんとう風シュークリームと言う不思議なものです。
黒糖やココアなどを使っていて、中は甘めのカスタード。アーモンドパウダーを使って、確かにかりんとうにどこか風情は似ているかりんとう❓
ファミリーマートです。 pic.twitter.com/lQv5XVolac— 湯川れい子 (@yukawareiko) January 25, 2022
湯川れい子のプロフィール
本名:田村和子(旧姓:湯野川)
生年月日:1936年1月22日
身長:不明
出身地:東京都目黒区、山形県米沢市
最終学歴:鴎友学園女子高等学校
所属事務所:ホリプロ
湯川れい子の家族、2度の結婚と離婚
湯川さんは海軍大佐の父・湯野川忠一の元に生まれました。
父は海軍大佐で軍司令部勤務。叔父は山本五十六。大叔父は海軍大将、黒井悌次郎、兄は櫻花隊の分隊長。これ以上ないほどの歴史的な生きた状況の中にありました。戦後の耳勉強とは違い過ぎて話になりません。@echimishi: @Itikawa_Ziroo @yukawareiko
— 湯川れい子 (@yukawareiko) May 17, 2015
また忠一の従妹は、有名な山本五十六元帥の妻でした。
湯川さんは疎開先である山形県米沢市で過ごした後、東京へ戻って鴎友学園女子高校を卒業します。
女優として山本薩夫監督の『太陽のない街』や今井正監督の『ここに泉あり』などへ出演し、舞台でも活動。
1959年、ジャズ専門雑誌「スイングジャーナル」に「湯川れい子」名義で記事を投稿したところ話題になりました。
これがきっかけとなり、翌年から同誌で執筆活動を始め、音楽評論家となるのです。
#1月22日生まれ の有名人 (60歳以上)
湯川れい子さん(86歳)
女優として活動する中ジャズに親しみ「スイングジャーナル」投稿での反響きっかけに音楽評論家として地位築く。ビートルズやプレスリーを日本に広める役割も果たした。作詞家としても「ランナウェイ」「六本木心中」などヒット曲多数 https://t.co/OmX2BxibVA
— 在宅介護サービスのホームインステッド・ジャパン (@HomeInsteadJP) January 21, 2022
湯川さんは2度の結婚と離婚を経験しており、最初の結婚はちょうど「スイングジャーナル」に投稿し始めた前後のこと。
夫は8歳年上で、幼なじみの銀行員。
進さんという名前で、一橋大学の学生時代、湯川さんの実家に下宿していました。
母親の要望で湯川さんは22歳のとき、進さんと結婚させます。
しかし幼少期から「年上のお兄さん」という感覚を抱いており、恋愛感情を持つことができませんでした。
形式上は結婚していたものの、夫婦の関係は冷え切っていたのです。
進さんがニューヨークに栄転しても、湯川さんは日本に残ります。
子供を作らないまま別居生活を送り、1966年、湯川さんが30歳のときに離婚しました。
湯川れい子の息子は田村有宏貴
湯川さんは進さんと離婚後、再婚相手との間に息子をもうけています。
息子の田村有宏貴(たむら ゆうき)さんは、イベント関連会社「キョードー東京」の取締役です。
有宏貴さんの最大の功績は、ポール・マッカートニーの日本公演を実現させたことでした。
レジェンドの本棚 田村有宏貴が語る、ポール・マッカートニーの貴重なエピソード! https://t.co/W7pek8kQG1 #wings #ビートルズ #beatles #ポール・マッカートニー #paulmccartney #WINGSFAN
— ハートのつぶやき (@Wingsfan_Extra) September 28, 2017
映画とは関係ないけど住む世界、環境、育ち、立場、社会的地位など関係なく誰でも仲良くなれる。って事をキョードー東京の田村さんに教えてもらいました。
これからも頑張ってください!
キョードー東京田村有宏貴インターナショナルチームに万歳#長渕剛 #太陽の家ファミリー #キョードー東京— ゆうじ (@ikvlllolooo) November 13, 2019
優れたイベント企画者・経営者として活躍し、私生活では33歳で結婚しました。
湯川さんは離婚していたものの、息子の結婚式には元夫とそろって出席しています。
その後、有宏貴さんは一人息子をもうけました。
湯川さんにとってはかわいい孫にあたりますね。
実は、湯川さんは病気を患っていたため、離婚後は息子を元夫の両親に預けざるを得ませんでした。
つまり最愛の息子とは離れ離れになっていたのです。
それでも母子の愛情は消えず、病気が完治してからは仲良く交流しているそうですよ。
湯川れい子の2番目の夫は田村駿禮
湯川さんが再婚したのは1973年。
相手は前年、自分で企画したエルビス・プレスリーのコンサート鑑賞ツアーで出会った男性でした。
名前は田村駿禮(たむら たかのり)さん。
湯川さんは結婚から2年後に有宏貴さんを出産すると、育児と仕事を両立させながら充実した日々を送っていました。
しかしあるとき駿禮さんが株の投資により、30億円の借金を作ってしまいます。
自宅は差し押さえとなり、さらに夫の浮気が発覚。
浮気相手との間には子供まで生まれていました。
こうして1998年、湯川さんは2度目の離婚に至ったのです。
駿禮さんはその後「田村熾鴻(たるひろ)」と改名して、株式会社グッドカンパニーの取締役となりました。
同社で貴金属やダイヤモンドの販売に取り組み、ブランド「エイトスター・ダイヤモンド」も展開。
息子の有宏貴さんも取締役として活動しているため、経営の才能は父譲りのようですね。
父子は不仲になっていたものの、有宏貴さんの結婚式に両親そろって招かれた後、和解したそうです。
湯川れい子の兄はフィリピンで戦死
湯川さんが洋楽を好きになったきっかけは、フィリピンで戦死した兄が吹いていた口笛でした。
吹いていた曲について兄は「僕が作った曲」と主張していたそうです。
しかし実際は戦前、アメリカで大ヒットしていた曲でした。
アメリカは敵国だったため、堂々と「アメリカの曲が好き」とは言えなかったのですね。
兄はアメリカの曲への愛を語れないまま、フィリピンで亡くなりました。
湯川さんは同じ悲劇をくり返さないために「平和を絶対に守るべき」と語り続けています。
音楽評論家としての原点となった兄の口笛の旋律は、いつまでも耳の奥に残っていたに違いありません。
湯川れい子の病気はC型肝炎
湯川さんはおよそ50年もの間、C型肝炎という病気と闘っていました。
C型肝炎ウイルス(HCV)が感染して起こる肝臓の病気で、多くの場合、自覚症状がありません。
しかし数十年後には肝がんに発展する恐ろしい病気です。
湯川さんは21歳のとき、腹膜炎の手術で輸血を受けたことが原因となり感染しました。
長年病名がわからず、顔中に黄疸が出る症状などに苦しみます。
1994年、C型肝炎ウイルスが発見されたことで、58歳にして病名を知りました。
当時は特効薬がなく、治療に時間がかかり、ようやく完治したのは70歳のとき。
完治までの間に夫の借金や浮気、病気が原因による息子との別れなど、苦しい出来事が多くありました。
それでも湯川さんは音楽を救いに生き続け、見事に病気に打ち勝ったのです。
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