湯川れい子(ゆかわれいこ)さんは日本を代表する音楽評論家、作詞家、翻訳家です。
ビートルズ、エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、エルトン・ジョンなど数多くの世界的なミュージシャンとの交流があることでも有名です。
また、非常に多くのミュージシャンのライナー・ノーツ(CD・レコードの解説)を手がけています。
今回は、日本を代表する音楽評論家である湯川さんの学歴やその英語力、また若い頃の経歴と交友関係についてまとめました。
湯川れい子のプロフィール
本名:湯野川和子(ゆのかわかずこ)
生年月日:1936年1月22日
出身地:東京都
職業:作詞家、音楽評論家
所属事務所:ホリプロ
湯川れい子の学歴&英語力
湯川れい子さんの出生は東京都目黒区です。
私が『クィーン・オブ・ロック』と言うのはヘンだけど、『キング・オブ・ロック』のエルヴィスの映画を見て感動したTOKYO SHITのデザイナーの櫻井一郎さんが、こんな素敵なTシャツを作って下さいました。
そのうち、TOKYO SHITのブランドから出て来るかも〜。 pic.twitter.com/UEJ7QVd8bH— 湯川れい子 (@yukawareiko) July 17, 2022
父は海軍大佐、また従妹はかの有名な山本五十六の妻、そして母方の先祖は米沢藩家老である千坂高房という家柄です。
一般層とはかけ離れた、かなり裕福な環境で育ったと言えます。
このご家族の背景からも、海外にものや文化に触れあう機会が多かったと想像できますね。
東京府青山師範学校附属国民学校
小学校は、現在でいう東京学園大学附属世田谷小学校に通っていました。
1876年から続く、とても歴史のある小学校です。
しかし、1944年の4月に父親が肺炎のために亡くなられてしまい、山形県に疎開をします。
鷗友学園
鷗友学園(おうゆうがくえん)は、東京都世田谷区に位置する、中学・高校一貫の私立女子学校です。
そのため、中学高校は鷗友学園で勉学に励みました。
とはいえ、高校時代には学校よりも映画館に足を運ぶことが多かったそうです。
高校時代には、現代俳優研究の研究生となり、1953年には『未亡人』に出演し女優としてデビューします。
その際は、吾妻麗子という名義で活動をしていました。
「時代の証言者 湯川れい子」その6
「高校2年の時、新聞広告で見つけた独立プロの女優募集に
応募して・・」
湯川女史、基本的に「出たがり」なんですな・・。(5/04 読売新聞朝刊) pic.twitter.com/gT9u0eT46Y
— jeek (@5619jeek) May 5, 2017
高校時代に女優としてデビューをしたため、大学へは進学せずそのまま就業をします。
また、女優業の他にも、高校生当時の大学生恋人の影響でジャズを知り、ジャズに熱中をしたそうです。
ジャズ雑誌への記事を寄稿し、それが大反響。
二回目の投稿で編集者の方から「本気で書いてみませんか?」と声がかかり、1960年からスイングジャーナルでの執筆活動も開始されました。
独学で身につけた英語力
湯川さんが英語の興味を持ち始めたのは中学時代にさかのぼります。
ラジオの米軍放送で流れた音楽を、ノートに書き写していたそうです。
中学時代というと、1950年前後、日本が欧米に追い付け追い越せと頑張り始めた時期です。
高校時代にはNHKのラジオ講座も毎日聞いて勉強をしていたそうです。
極めつけは、映画を見ながらの学習方法。
同じ映画を1回目は字幕を見ながら、2回目はなるべく字幕を見ないで、次の回までの間にお弁当を食べて、3回目は字幕を見ず、4回目は分からないところだけ字幕を見るという具合に繰り返し見ました。
今でこそ、YouTubeやネットでいくらでも英語にふれ、英語学習ができますが、1つの映画を4回も見直す学習意欲はとても参考になりますね。
溢れんばかりの情熱と努力でみにつけた、英語力と音楽への愛が、日本を代表する世界的な音楽評論家への礎となりました。
湯川れい子の作詞家としての経歴
1956年から作詞家として活動しています。70年台80年台にかけては、CM曲の作詞等も手がけています。
ラッツ&スターのデビュー曲である「ランナウェイ」を作詞したことはあまりにも有名で、CM曲として作られたこの曲は評判がよく、あとからラッツ&スターのロングバージョンの曲として完成されました。
金曜日の妻たちの主題歌、小林明子の「恋におちて」の作詞も手がけています。
さっきEテレつけてたら『恋におちて』を作詞した湯川れい子先生の歌詞の解説がはじまって、その後かわいいこどもたちが合唱してくれたんだけど、すごくよかった……
本当に感動して涙出てきた…それを聴いた湯川れい子先生の歌が清められたって涙ぐむ感性もまたすごくよかった😢#ワルイコあつまれ
— 大臣 (@daijin_) June 4, 2022
最初は英語の堪能な湯川さんに対して、レコード会社から全英語でのオファーがされましたが、結局日本語に修正してほしいとレコード会社から再度の要求があったようです。
「ダイヤルまわして、手を止めて」という歌詞はとても印象的で当時、大変流行した言葉になりました。ただ、ちょうどそのころから電話がプッシュフォンに切り替わり始めた時期。レコード会社から再度修正の依頼があったものの、そこだけはダイヤルでいきたいと突き通したとのことです。
このエピソードからも、とても芯の強いライター魂があったことがうかがえます。
ほかにも、アン・ルイスの「六本木心中」、西郷輝彦の「星の涙」「9月のバラ」、 TUBEの「Tears」「Endless sunset」、中島美嘉の「火の鳥」、氷川きよしの「きらめきのサンバ」、松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」など、時代、ジャンル問わず多種多様な楽曲の歌詞にたずさわっています。
ラジオDJで活躍
「アメリカン・トップ40」「ポップシーンメモリー」など、大ヒットしたFMラジオでDJをしていました。
大橋巨泉、青島幸男と同じく構成作家からラジオDJに転身しました。1962年、当時26歳から西銀座ニッポン放送のサテライトスタジオでDJとしての経歴をスタートさせます。日本でほぼ初めての女性DJだったと言われます。
当初世界で最も豊かだったアメリカ、その国の音楽を、まだまだ成長期で豊かとは言えなかった日本に次々と紹介していきました。
日本に洋楽(主にアメリカ)を紹介する架け橋となり、日本人の新たな音楽趣向に多大な影響を与えた人物です。
世界的なスターたちとの交流
エルビス・プレスリーとの交流
1973年、ラスベガスで挙式をした際に、エルビス・プレスリーが結婚の証人となりました。
しかし、その結婚は1998年に終焉、離婚となってしまいました。
シンディ・ローパーとの交流
東北大震災の3月11日当日、シンディ・ローパーは来日公演で日本に到着しました。
日本のために命を捨ててしまってもいいという覚悟で、湯川れい子さんと一緒に仙台に向かったとのことです。
石巻=ロックンロールということで、仙台の居酒屋で飲み明かしたと言います。
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