天童よしみの家族まとめ!歌手成功は父親と母親の影響。兄弟はいない。八尾の実家豪邸とは

人当たりの良いキャラと圧倒的歌唱力で、演歌界を引っ張っている歌手の天童(てんどう)よしみさん。

家族構成は父親と母親のみで、兄弟はいないようですね。

実家は大阪・八尾(やお)にあり、周囲の家屋と比べても目を引く豪邸だそうですよ。

天童よしみのプロフィール

本名:吉田芳美(よしだよしみ)

生年月日:1954年(昭和29年)9月26日

出身地:大阪府八尾市

最終学歴:大阪女子短期大学附属高等学校卒業

所属事務所:天童事務所

天童よしみの家族は父親と母親

ここでは、天童よしみさんの家族について見ていきましょう。

父親と母親との関係は、とても深いものだったことがわかりますよ。

天童よしみの父親

天童よしみさんの父親は、吉田義行(よしだよしゆき)さんといいます。

歌がとても好きで、天童さんに大きな影響を与えました。


幼い頃、両親が子供に与える影響というのは非常に大きいものですよね。

天童さんは幼少期から歌が大好きで、誰もが認めるほど上手だったのです。

小学校に入ってすぐの、7歳の頃からのど自慢大会に出場。
毎日放送主催の「素人名人会」では「可愛いじじい」を熱唱して、名人賞を受賞。

小さい頃から、なかなか深みのあるタイトルの歌を歌っていたのですね。

天童さんは、出る大会に優勝しまくっていました。

ちなみにいつも準優勝していたのは、あの上沼恵美子(かみぬまえみこ)さん。

冠番組を多数抱えて、お茶の間を賑わせてくれていました。

そう言えば、若い頃は歌を歌っていたこともありましたね。


幼い頃から切磋琢磨していた二人は、大人になってからも仲良しなのだとか。

話を天童さんに戻すと、 あまりに歌がうまいので「天才少女」と言われるようになりました。

そして、15歳のときにアニメ「いなかっぺ大将」の主題歌「大ちゃん数え唄/いなかっぺ大将」を歌うことに。

1972年にデビューした後も、父親はしっかり天童さんを支え続けました。

10年以上も売れなかったので「引退したい」という思いがあった娘を、説得したのも両親。

2023年現在、大物演歌歌手になっているのは親の力が大きかったということでしょう。

父親は、天童事務所の会長をしてよしみさんをサポート していたのです。

特に、紅白歌合戦に出るのをとても楽しみにしていたといいます。

昭和の歌謡界というのは、紅白歌合戦という番組は憧れの舞台でしたよね。

出場することが、歌手として認められた証拠のようなものだったと言えるでしょう。

一人娘をしっかり支えていた父親・義行さんでしたが、病が襲いかかります。

15年間もの長い間、大腸がんの闘病生活を送ることになってしまいました。

一旦は完治したと思われましたが、再発。

2008年に大腸がんのため、78歳で亡くなっています。


当時、新歌舞伎座で座長公演をしていた天童さん。

ただの舞台ではなく、座長という大役を担って大変な日々を過ごしていました。

それを知っていた生前の父は娘に気遣い、「お父ちゃんが死んでもみんなに絶対言うなよ」と頼んでいたとか。

その言葉を守り、世間に公表したのは舞台が終わってからでした。

辛い気持ちを隠して、見事に座長を務めあげたのですね。

天童さんは両親と同居していたので、身近にいた父がいなくなって喪失感が大きかったといいます。

お別れ会には、西川きよしさんや藤あやこさんなど300人もの人々が参加して別れを惜しみました。

天童よしみの母親

天童よしみさんの母親は、吉田筆子(よしだふでこ)さん。

2023年には90歳になります。

筆子さんの母親は福島県南会津郡の出身なので、天童さんは東北にもルーツがあったのですね。

天童よしみさんの1番のファンで、1970年にデビュー・上京の際には一緒に付いて行ったそうです。

しかし5年経っても売れず、一時夢を諦めて大阪に戻りました。

その時、筆子さんは「絶対また東京へ戻って成功させる」という思いを持っていたといいます。


本人だけでなく、周囲も「夢をあきらめない」という強い気持ちを抱き続けることはとても大事なのですね。

これが後の大成功につながった一因となったはずです。

さて、大阪では父のアドバイスを受けて開いた「天童よしみ歌謡教室」がヒット。

天童さんは生徒に、一生懸命歌の指導を行いました。

その甲斐があって、生徒たちはメキメキと上達していったのです。

天童さんの歌謡教室の評判は、音楽業界にじわじわと浸透していきました。

歌謡教室に音楽関係者が問い合わせたのは、1993年のこと。

「天童さんに歌ってほしい歌がある」と言って渡された歌は「道頓堀人情」。

この曲がブレイクのきっかけになるのです。

天童さんは、またと無いチャンスを絶対にモノにしたかったことでしょう。

コツコツと、営業活動を全国展開させて行きました。

1ヶ月で300箇所を回るという超ハードスケジュールも見事にこなし、成功させたのです。

「道頓堀人情」はヒットし、年末には紅白歌合戦にも出場できるほどに。

天童さん自身の才能と努力に加えて、父親と母親のバックアップも非常に大きな支えになったことでしょう。

1990年代後半の60歳頃、筆子さんに病魔が襲いかかります。

脳の血管系に異常が見つかり、長期入院を余儀なくされました。

後遺症で右半身が動きにくくなりましたが、頑張ってリハビリをこなしていったそうです。


それから20年近く経った85歳の時、庭の手入れをしていた際に転倒。

人工股関節を両足に埋め込むという大けがを負ってしまったのです。

高齢になってケガをすると、寝たきりの生活になって弱るケースが多いと聞きます。

歌手業で多忙な天童さんでしたが、可能な限り自分で母親の世話をしたそうです。

親孝行な娘を持って、筆子さんはとても幸せなことでしょう。

杖をつけば何とか少しは歩ける程度でしたが、2023年現在はだいぶ回復しているといいます。

天童よしみに兄弟はいない

天童よしみさんは一人っ子で、兄弟はいません。

両親は一人娘にたっぷりの愛情を注いで、夢を応援したそうです。

3人4脚で芸能界を歩んできたのですね。

幼い頃から歌のコンテストに出場させて、演歌歌手として成功するために尽力してくれた両親。

もし兄弟がいたら、これほどまでに手をかけることはできなかったでしょう。

天童さんは結婚をしていないので、親子の結びつきがより強くなっているようです。

天童よしみの実家は大阪の八尾

天童よしみさんが生まれたところは、和歌山県田辺市。

4歳の時に大阪・八尾に引っ越したそうです。

天童さんは1996年発売の「珍島物語」を大ヒットさせて、実家を建て直しました。


5階建ての豪邸が鎮座しており、八尾ではかなり目立つ存在だと言われています。

実家は事務所も兼ねており、建設総額は5億円したそうです。

それからしばらくして、別宅を近所に建てていることが判明。

純和風の豪邸で、格子の門扉がとても上品なのだとか。

天童さんの唄とイメージが合いそうな素敵な家だそうですよ。

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