BLANKEY JET CITY解散後も、さまざまなユニットやソロ活動を通じて独自の音楽を発信し続けてきた浅井健一(あさい けんいち)さん。
BLANKEY JET CITYがイカ天(『三宅裕司のいかすバンド天国』)出身バンドだったことは有名な話ですが、今回はイカ天出演でメジャーデビューが決まるまでの若い頃にスポットを当ててみました。
また、解散して20年以上たった今も伝説のバンドとして語り継がれるBLANKEY JET CITYや、ニックネームのベンジーの由来についても掘り下げます。
バイク事故を起こしたという話もありますが、それは本当なのでしょうか。
愛車サリンジャー号についてもみていきます。
浅井健一のプロフィール
愛称:ベンジー
本名:浅井健一
生年月日:1964年12月29日
身長:171cm
出身地:愛知県名古屋市千種区猪高町(現・名東区)
最終学歴:愛知県立長久手高等学校中退
浅井健一、若い頃にグランドイカ天キングを獲得
ロックミュージシャンを夢みながら、長久手高校在学中からバンド活動をしていた浅井健一さん。
のちのブランキ―のメンバー照井利幸さんとは名古屋時代からスキャッツというバンドで活動していました。
高校中退後も働きながら音楽活動を続け、やがて上京。
その後照井さんも上京し、中村達也さんが加わって、1987年2月にTHE BLANKEY JET CITYが結成されます。
その後は主に東京都内のライブハウスでステージをこなしながら、レコード会社にデモ音源を送る日々。
『三宅裕司のいかすバンド天国』に出演したのは1990年のことでした。
イカ天はBEGIN、たま、人間椅子などを輩出し、バンドブームの火付け役として一世を風靡した、深夜番組『平成名物TV』の名物コーナー。
THE BLANKEY JET CITYは完成度の高い圧巻のパフォーマンスで5週を勝ち抜いて6代目グランドイカ天キングに。
翌1991年、東芝EMIからメジャーデビューを果たします。
筆者はリアルタイムで彼らが出演した回をすべて観ていましたが、まず驚いたのは、過去にザ・スターリンやザ・スタークラブといったメジャーなパンクバンドに在籍していたドラマーの中村さんが素人オーディション番組に出演したことでした。
イカ天出演は中村さんのアイデアだったそうです。
のちに浅井さんは、デビューのきっかけをつくってくれたイカ天に今は感謝しているけれど、出演時は同番組があまり好きではなかったと告白。
その理由は、いいかげんな感じで音楽をやっているバンドが多かったから。
自身を「真面目で、不真面目なことが嫌いな性格」と分析する浅井さんらしい言葉ですね。
日本ロック史に残る伝説の3ピースバンド
日本ロック史上最高の3ピースバンドとの呼び声も高いBLANKEY JET CITY。
デビューから3年ほどはTHE BLANKEY JET CITYという表記でした。
2000年に解散しており、10年にも満たない活動期間でしたが、現在に至るまで再結成を熱望する声は後を絶ちません。
メンバーはボーカル&ギターの浅井健一さん、ベースの照井利幸さん、ドラムの中村達也さん。
彼らは不良性、文学性、ビジュアル、卓越した演奏技術と骨太なリズムなど、ロックファンが求める要素のほとんどを持ち合わせた伝説のロックバンドでした。
とりわけ浅井さんによる美意識の高い繊細な歌詞と、少年のようにも聴こえる線の細い独特のヴォーカルは、椎名林檎さんをして「歩く芸術」と言わしめたほど。
ところがバンドは2000年5月10日、8thアルバム『Harlem Jets』のリリースの合わせて、朝日新聞の広告にて同アルバムをもって解散することを発表。
あまりに突然の解散宣言でしたが、メンバーの個性が強く、実際に衝突も起きていたことから、デビュー当初から解散の噂は絶えずつ
きまとっていました。
解散理由について、「いろいろあったんだよ」と答えている浅井さん。
ですが、3人の仲が険悪になったというわけではありません。
レコーディングやライブで個性がぶつかり、高め合っていくなかで、そのテンションを長年にわたり維持することは困難に近かったのかもしれません。
BLANKEY JET CITYは同年7月にラストシングル『Saturday Night』をリリース。
最後のライブはヘッドライナーとして出演したフジ・ロック・フェスティバルのグリーンステージとなりました。
2013年1月には、ラストツアーを追ったドキュメンタリー映画『VANISHING POINT』が公開されています。
ベンジーの由来は大ヒット映画の主人公
浅井健一さんといえば、ベンジーの愛称でおなじみです。
このニックネームと愛用のグレッチギターは、椎名林檎さんの名曲『丸ノ内サディスティック』にも登場しますね。
「そしたらベンジー あたしをグレッチで殴(ぶ)って」「そしたらベンジーが肺に映ってトリップ」の「ベンジー」とは、もちろん浅井さんのこと。
「日本人なのになぜベンジー?」と思う人もいそうですが、70年代後半から80年代にかけて青春時代を過ごした人ならピンとくるかもしれません。
ベンジーの由来は、当時日本でも大ヒットしたイスラエル映画『グローイング・アップ』の主人公ベンジーです。
ハリウッド映画に『アメリカン・グラフィティ』という名作がありますが、『グローイング・アップ』はこれに触発されて制作された青春映画。
主人公のベンジー、太っちょのヒューイ、イケメンのボビーの仲良しトリオがナンパに明け暮れる日々をオールディーズの名曲にのせて描きます。
同作は大ヒットしてシリーズ化されました。
「グローイングアップ」
アメリカングラフィティのお色気版、というイメージですがイスラエル映画。なんとパート8まであってサメ映画並み😅
元ブランキーの浅井健一=ベンジーの由来でも有名。
確かに似ている(笑)#ベンジー pic.twitter.com/9xLjpfcLyt— まゆー (@degu_mayu) April 9, 2020
最初に浅井さんをベンジーと呼んだのはメンバーの照井さんなのだそう。
ブランキ―のメンバーは全員1964年または1965年生まれですから、1978年の『グローイング・アップ』公開時は中学生だったはず。
のちにテレビ放映もされていますから、おそらく照井さんは映画を観たのでしょう。
浅井健一、高校時代にバイク事故を起こしていた
浅井健一さんは過去にバイク事故を起こしたことがあるらしいという噂がありますが、これは事実のようです。
高校時代はパンク好きの不良少年だったという浅井さん。
事故を起こしたのは17歳のときで、大怪我をして6か月以上も入院することになりました。
音楽のみならず、絵画やCDジャケットのアートワークも手がけ、個展も開くなど多彩な才能を発揮している浅井さんですが、そもそも詩や絵を創作するようになったきっかけがこの入院生活だったそう。
才能にあふれた方ですから、いずれは自然に詩や絵を創作するようになったと思いますが、才能を早く開花させる後押しをしたのが入院生活だったことになりますね。
浅井健一の愛車はサリンジャー号
バイク好きのミュージシャンといえば、必ずといっていいほど名前があがる浅井健一さん。
長年の愛車・サリンジャー号(ヤマハXS250)の名前は『ライ麦畑でつかまえて』のJ.D.サリンジャーにちなんだもの。
エンジンはXS400用、タイヤはオフロード仕様、また1ドル紙幣をニスで貼り付けたり、サリンジャーのロゴを描くなど、あらゆるパーツにカスタマイズを施した世界に1台しかないオリジナルバイクです。
浅井さんのサリンジャー号への溺愛がうかがえますね。
2019年5月にリリースされた『METALLIC MERCEDES』のMVにはサリンジャー号も登場。
愛車またがり、夜の東京を疾走する浅井さん。
ガレージでバイクをメンテナンスするようすも撮影されていて、バイクファンも魅了するクールなMVです。
バイクはもちろんのこと、「男はやっぱり車でしょ」と言ってはばからないほど車も愛する浅井さん。
そうなると、車の愛車も気になるところです。
断片的な情報を整理すると、過去にシボレー・カマロやジャガーのオーナーだったことがあるようですね。
車を選ぶときのポイントは「ときめき」。
ときめいて、「これに乗りたいなあ」と思うかどうかがカギになると述べています。
BLANKEY JET CITY時代の伝説や歌詞の世界観などから、カリスマ・孤高のロッカーなどと呼ばれる浅井健一さん。
かっこいいと思える曲が作れなくなったら音楽をやめるという美学にもとづいた活動のスタンスは今後も変わらないでしょう。
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