黒柳徹子の生い立ちと戦争疎開。小学校退学?幼少期、経歴まとめ

「徹子の部屋」をはじめ、テレビ番組のMC・タレントとして活躍し続けてきた黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さん。

ユニセフ親善大使を務めていることから、戦争や貧困など社会問題に関心が強いことがうかがえます。

社会貢献への意欲があるのは、世代的にも自身の戦争体験がルーツなのではないでしょうか。

今回は徹子さんの生い立ちと戦争疎開の詳細に迫ります。

また小学校退学の情報から幼少期について確認し、経歴をまとめます。

黒柳徹子のプロフィール

愛称:トットちゃん、チャック

本名:黒柳徹子

生年月日:1933年8月9日

身長:163cm

出身地:東京都

最終学歴:東洋音楽学校声楽科(現在の東京音楽大学)

所属事務所:吉田名保美事務所

黒柳徹子の生い立ちと戦争疎開

徹子さんは現在の東京都港区に生まれました。

父の黒柳守綱さんは新交響楽団(現在のNHK交響楽団)で活躍したヴァイオリニストです。


コンサートマスターとしてクラシック音楽界で活躍し、1954年の映画『ゴジラ』のテーマ曲の演奏にも参加しました。

母はエッセイストとして活躍した黒柳朝(ちょう)さん。

朝ドラ『チョッちゃん』は、朝さんのエッセイをもとに、彼女をヒロインに据えた作品でした。

徹子さんが戦争疎開したのは、小学生の頃です。

北海道にあった母の実家から帰る途中、汽車の中で青森の農家と隣り合います。

その縁で1945年3月、青森県三戸郡の諏訪ノ平へ疎開したそうです。

徹子さんは裕福な家庭に生まれたものの、幼少期は戦時中でしたから、食べ物がなく栄養失調になっていました。

栄養不足が原因の「ひょうそう」という病気にもかかっています。

全身にできものが生じ、爪の間が膿んでしまったそうです。

しかし青森へ疎開してからは、漁師がくれた魚を食べて、病気が治りました。

「人間にはたんぱく質が必要だとわかった」と語っています。

戦後、戦地に赴く人々を見送りながら、自分だけ生き残っていることに罪悪感を抱き始めたそうです。

そしてどんなことがあっても、「人間同士が殺し合う戦争だけは起こしてはならない」と考えるようになります。

ユニセフ親善大使として、紛争地や途上国の人々へ支援を続ける徹子さん。

時には現地に赴いて、難民や貧しい人々と交流してきました。

熱い正義感の原点は、戦争に翻弄された過酷な生い立ちだったのかもしれません。

誰も殺さず、誰も殺されない世界を目指すため、平和を訴え続けているのでしょう。

黒柳徹子は小学校退学?幼少期について

徹子さんは幼少期、落ち着きがなかったため、発達障害や学習障害があると考えられていたそうです。

授業に集中できず、問題児として扱われてしまい、現在(2023)の公立小学校にあたる尋常小学校を1年目で退学させられました。

義務教育の学校を退学させられるのは、今では考えられないですね。

徹子さんはその後、私立のトモエ学園に転校。

トモエ学園は非常に自由な校風で、生徒は好きな科目を選んで受講できたそうです。

自由な校風は、大人に縛られるのが大嫌いな徹子さんにピッタリでした。

「牛肉のマネ」と称して、1日中、鉄棒にぶら下がっているだけの日もあったそうです。

トモエ学園の校長先生は、問題児だろうと偏見なく語りかけてくれました。

「君は、本当はとてもいい子だ」と言ってもらえた徹子さんは、「はい、いい子です!」と答えたそうです。

優しい校長先生とやんちゃな徹子さんの、微笑ましいやり取りですね。

かつて「問題児」というレッテルを貼られたものの、堂々と生きてきた徹子さん。

前向きな生き方は、トモエ学園でのびのびと過ごした日々に育まれたのかもしれません。

日本の小学校の教育方針は、規律と上下関係を重んじるものです。

しかしトモエ学園のように、子供の意思を尊重し、自由に行動させる教育施設も必要でしょう。

一般的な教育では、学校になじめず、不登校になる子供も数多くいます。

厳しい上下関係や、どんな理由があっても教師に逆らってはいけないという環境を、苦痛に感じてしまうためでしょう。


そんな子供たちを「問題児」として批判するだけでなく、1人ひとりに合った環境を提供するのも学校の務めではないでしょうか。

そう考えるとトモエ学園は、生きづらさを抱える子供たちにとって、安らぎの場だったといえるでしょう。

黒柳徹子の経歴まとめ

徹子さんはトモエ学園と香蘭女学校を卒業後、オペラ歌手を夢見て東洋音楽学校へ進学します。

母の朝さんの母校だった音楽学校で声楽を専攻。

しかしオペラ歌手の道は険しいと知り、女優へ方向転換しました。

元々は「絵本の読み聞かせがうまくなりたい」という理由で、NHK放送劇団の劇団員になります。

そして1953年、テレビ放送が開始すると、最初のテレビ女優となりました。

ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』のトン坊役で主演を務め、もっとも初期の声優として活躍。

『チロリン村とくるみの木』や『ブーフーウー』に出演し、順調にキャリアを重ねます。

ただ女優としての実力に限界を感じていたため、文学座研究所やアメリカのメアリーターサイ演劇学校で演技を学びました。

ニューヨーク留学中、和服と洋服の両方に調和する「たまねぎヘア」を考案。

その後「徹子の部屋」の前身である「13時ショー」のMCを務めるため帰国。

76年「徹子の部屋」の開始と共に、女優活動を停止し、司会業に専念するのです。

女優として悪役を演じてしまうと、悪い人間がゲストの話を聞いている印象を与えてしまうという理由でした。

筆者にとって徹子さんは、「タレント・司会者」というイメージがありました。


しかし本来は、正当な訓練を受けた立派なプロ女優だったのです。

訓練で培った高い表現力、生まれ持っての行動力を武器に、徹子さんは半世紀以上にわたって芸能界を生き抜いてきたのでしょう。

そして熱い正義感を持って、平和活動にも邁進し続けてきたといえますね。

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