ジョニー大倉(ジョニーおおくら)さんは、矢沢永吉さんらとキャロルを結成し1972年12月20日にシングル「ルイジアンナ」でデビューしました。
キャロルではギターを担当し、楽曲は作詞を大倉さん、作曲を矢沢さんが担当し、「ファンキー・モンキー・ベイビー」などの大ヒットを世に送り出しました。
1975年にキャロルを解散すると、ソロの音楽活動をしつつ、俳優業も行っていました。
そんなジョニー大倉さんが亡くなった死因や1987年に起きたホテルからの転落事件について、生い立ちや矢沢永吉さんとの確執についてなど、お伝えします。
ジョニー大倉のプロフィール
本名:大倉洋一
韓国名:朴雲煥
生年月日:1952年(昭和27年)9月3日
没年月日:2014年(平成26年)11月19日
身長:172cm
出身地:神奈川県川崎市
最終学歴:川崎市立川崎高等学校中退
ジョニー大倉の死因と転落事故
ジョニー大倉さんは「不死身のロックンローラー」と言われていました。
そう呼ばれるようになったきっかけは、1987年にホテルの7階から転落したにもかかわらず九死に一生を得たからでした。
ですが、2014年11月19日に亡くなられています。
ジョニー大倉が亡くなってショック。不死身だと思ってたのに。すごい作詞家だった。
— やまのこし (@masatoyamako) November 28, 2014
大倉さんが亡くなられた死因についてや、過去の転落事故について詳しく調べてみました。
死因は肺がんによる肺炎
ジョニー大倉さんの直接的な死因は、肺がんにより併発された肺炎でした。
62歳という若さでした。
ですが、「不死身のロックンローラー」と呼ばれただけあり、肺がんと診断されてからも奇跡的な復活を遂げています。
2013年6月に医師から肺がんの診断を受け、その時点で余命は2週間と宣告を受けていました。
ですが、抗がん剤治療をはじめると薬が合っていたのか回復を見せ、2014年3月に無事退院をされました。
そして、もうステージに立つ事は無理だと誰もが思っていた中、2014年4月13日のキャロルの解散記念日に「奇跡の復活ライブ」を開催しました。
体調が万全とは言えなかったため、7曲のみへの参加となりましたが、ファンは「おかえりー!」という大歓声で大倉さんを迎えました。
このようにステージに復帰するほどの回復を見せましたが、その後肺がんが再発し、2014年8月に再び入院生活を余儀なくされました。
そして体調は回復する事なく、2014年11月19日に62歳という若さで家族に看取られました。
1987年のホテル落下事故について
ジョニー大倉さんは1987年10月25日、テレビ収録とディナーショーの出演のために宿泊していた富山県のホテルの7階から転落し、大怪我を負いました。
地上20メートルの高さがあり、普通ならば即死してもおかしくない高さからの転落でしたが、両足の骨を複雑骨折する全治6ヶ月の大怪我を負いましたが命に別状はありませんでした。
また、心配された後遺症なども出ることもなかったことから「不死身のロックンローラー」と呼ばれるようになりました。
転落した理由については、「ホテルで筋トレをしようと思って、ベランダの手すりで懸垂をしていたら手が滑ってしまった」と語っていました。
確かに大倉さんはガタイも良く、当時NHKの大河ドラマ「武田信玄」で武田家家臣の馬場信春役を演じる予定でしたので、そのために筋トレが必要だった事は理解できます。
ですが、ベランダの手すりを使って命がけで筋トレを行うという行動は、あまり納得できる説明ではありませんでした。
夕陽が反射してきれい。かなり前の事。ジョニー大倉が酔っぱらって窓から飛び降りたか転落したホテル。 多分、これだったはず。 県内ニュースで、結構話題になったわ pic.twitter.com/FTC8LgVjB2
— よちゃーちゃん (@yo_cya_cya) May 21, 2013
ワイドショーなどでは泥酔していたのではないか、薬物を使用していたのではないか、といった憶測や噂が報道されていました。
「自ら命を絶とうとしたのでは」という噂もありましたが、ご本人は否定しています。
出演予定だった大河ドラマ「武田信玄」はこの事故で降板しましたが、後に「鎌田長門守」役で改めてキャスティングされ、出演を果たしています。
若い頃と苦労した生い立ち
ジョニー大倉さんは、1975年に出版された「暴力青春」で在日韓国人2世であることを公表しています。
神奈川県の外国人のよく住んでいる地域に生まれましたが、割と裕福な家庭だったそうです。
父親は、港で船の荷物を扱う仕事の親方をされていたそうです。
ですが、大倉さんが5歳の時に父親が亡くなってしまいます。
母親は父親の愛人だったため、何の補償も受けられず、生活が苦しくなりました。
そこで神奈川県川崎市の朝鮮人集落に行きましたが、馴染むことができずに1年も経たないうちにそこを出ました。
日本人社会で生活をしていましたが、韓国人だという理由で小学校などではいじめにあったりしたそうです。
その後高校生の時にビートルズに衝撃を受け、高校を中退し音楽活動をはじめました。
そして、矢沢永吉さんの張ったバンドメンバーの募集の張り紙を見つけ、「キャロル」に参加することになりました。
矢沢永吉との確執でキャロル解散
ジョニー大倉さんと矢沢永吉さんが在籍した伝説のバンド・キャロルは、1972年に結成し、1975年に解散しました。
解散の原因はメンバー間の軋轢が生じたためで、特に大倉さんと矢沢さんの確執が決定的だったと言われています。
大倉さん曰く「キャロルは矢沢だけのものじゃない。俺たちは矢沢のバックバンドじゃない」と、矢沢さんに不満を持っていたそうです。
一方で、キャロルの解散は大倉さんに原因があった、とする見方も多くあります。
キャロルの活動中、大倉さんは薬物依存状態になっており失踪をしてバンドの活動がストップしてしまうこともありました。
矢沢さんはそれでも大倉さんの復帰を待ち続けていたと言います。
バンド解散の理由は様々あり、それぞれに真実と思うことがあるのかもしれませんね。
ジョニー大倉さんが死去した際、矢沢永吉さんは「非常に残念です。心からお悔やみ申し上げます」とコメントを発表しました。
再び共にステージで共演することはかないませんでしたが、このお2人がいなければ伝説のバンド・キャロルも存在しませんでした。
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