ペドロ&カプリシャスの初代ボーカリストとして一世を風靡したのち、40歳という若さで亡くなった前野曜子(まえの ようこ)さん。
この記事では、いまだ熱心なファンが多い伝説の歌姫の死因に迫ります。
生まれつき病気がちだったという彼女ですが、具体的にどのような体調不良があったのでしょう。
ペドロ&カプリシャス脱退後の活動と晩年の状況についてもみていきます。
前野曜子さんといえば、カーリーヘアと少しハスキーで翳りのある歌声がなんとも魅力的で、歌のうまさは天下一品でした。
ですが、その歌唱力がいまいち正当に評価されていない印象もありますね。
歌詞の情景が目に浮かんでくるような表現力は天賦の才ともいえますが、宝塚時代の学びも活かされていたことは確かでしょう。
前野曜子のプロフィール
本名:前野耀子
生年月日:1948年(昭和23年)1月25日
没年月日:1988年(昭和63年)7月31日
身長:159cm
出身地:東京都中央区銀座
最終学歴:宝塚音楽学校卒業
所属事務所:小学館プロダクション(1988年7月31日死去)
前野曜子の死因は心不全
前野曜子さんは、1982年に放送がスタートしたテレビアニメ『スペースコブラ』の主題歌を担当してまもなく体調が悪化して、都内の病院に入院しました。
この世を去ったのは1988年7月31日のことです。
享年40、死因は心不全でした。
これは逝去から2年半以上たった1991年4月発売の『女性自身』で明らかになったもので、訃報についてはリアルタイムで報道されることはありませんでした。
晩年の数年間はこれといった音沙汰がなかったことから、ずっと闘病生活を送っていたと思われます。
一方で、この「心不全で死去」という報道が少し気になるのも事実です。
「心不全」というのは、じつは報道の隠語のひとつで、死に至った事実の公表がはばかられる場合に使われることがあるからです。
たとえば自死や愛人宅での心臓発作による死、または不審死・怪死といった原因不明の死などが該当します。
もちろん実際に心臓疾患によって死去したケースもあるのですが、前野さんの場合、3年近くも訃報が伝わってこなかったために、よけいに妄想がふくらんでしまいますね。
前野曜子は病気に苦しんでいた
生まれつき身体があまり丈夫でなかったという前野曜子さん。
「小さいときから血が少なかった」と自ら話しているところをみると、おそらく貧血の持病があったのでしょう。
川村高等学校を中途退学して宝塚音楽学校に進み、宝塚歌劇団へ入団して初舞台を踏むも、翌年に体調不良により退団しています。
ペドロ&カプリシャス加入後も、『別れの朝』が大ヒットした翌年の1972年に過労により倒れてしまいました。
グループとしては活動に支障がでてきたわけですね。
リーダーのペドロ梅村さんによると、「いちばんつらいのは曜子なんだけど、メンバーに申し訳ないと思うあまりにノイローゼの症状まででてきちゃった」とのこと。
前野さんは結局、その翌年にグループを脱退してしまいます。
ペドロ&カプリシャスは前野さんの脱退で人気が低下しますが、2代目ボーカル・髙橋真梨子(当時は高橋まり)さんの加入で復活。
『ジョニィへの伝言』や『五番街のマリーへ』のロングヒットも生まれました。
こうした状況を前野さんご本人はどのように受けとめていたでしょう。
仕事をしようにも身体がついていかないということは、精神面にも大きな影響を及ぼしていたと思われます。
また彼女は大変なお酒好きでもあり、大酒飲みといわれるタイプでした。
酒量はしだいに増えていき、晩年はアルコール依存症に陥っていたそうです。
病院に入院して闘病生活を送るようになったのは、アルコール依存症や長年の飲酒による内臓疾患など健康上の問題が深刻化したためでした。
おそらく肝臓の病気を患っていたのではないでしょうか。
晩年はソロ転向、そして闘病生活
1979年、松田優作さん主演の角川映画『蘇える金狼』の主題歌をソロ歌手として歌い、ふたたび脚光を浴びた前野曜子さん。
このとき、「ペドロ&カプリシャス以来、6年ぶりのカムバック!」と報じられましたが、これは脱退後の活動が考慮されていません。
1973年、カプリシャスを脱退した前野さんは約半年のアメリカ生活を終えて帰国し、マスカレードというグループで歌手活動を再開しています。
1976年には過去に在籍したリッキー&960ポンドに復帰して、翌年にアルバム『ABRAZAME』をレコーディング。
同グループには3年間在籍しました。
1979年12月には、同じく松田優作さん主演のドラマ『探偵物語』第14話に出演。
雑誌『平凡パンチ』でセミヌードを披露したのもこの年です。
1980年には、またもや松田優作さん主演の角川映画『野獣死すべし』にセリフのない役で出演。
同年、ポーランドで開かれたソポト国際音楽祭に参加して大衆賞に輝いています。
80年代初頭には自身のバンドでライブ活動も行っていました。
1982年に放送がはじまったテレビアニメ『スペースコブラ』では主題歌を歌唱。
ですが、前野さんは同年に入院し、1988年7月31日にひっそりと生涯を閉じました。
美貌の実力派シンガーとして、デビュー当初は華々しい活躍を期待されていただけに、さびしい晩年だった印象は否めません。
聴く者の心をつかむ圧倒的な歌唱力
ペドロ&カプリシャスのボーカルといえば高橋真梨子さんを思い浮かべる人が多いと思いますが、初代は前野曜子さんでした。
前野さん在籍時に大ヒットした『別れの朝』は、のちに高橋さんも歌っていますが、この歌は前野バージョンに尽きるという声が多いですね。
あの高橋真梨子さんさえ遠く及ばないと評する人もいるほどですから、その歌唱力がいかに聴く者の胸を打つかがわかります。
「詩の心を歌える、上手い子だったね」とはペドロ梅村さんの言葉です。
高橋バージョンは確かにテクニックに長けてはいるのですが、やや情感に欠け、淡泊な印象を受けるのも事実。
一方の前野バージョンは、心に訴えかける力強さがありながら、けっして誇張しすぎない絶妙な歌唱です。
生きることに倦んでしまったようなブルージーな歌声も曲調にマッチしていますね。
発声がクリアで、日本語が美しく聴こえるところもこの方の持ち味でしょう。
たんに声がよい、歌が上手いということだけでなく、ひとつひとつのフレーズが胸に突き刺さるように響く表現力はさすがです。
このあたりは宝塚歌劇団仕込みのものかもしれません。
この『別れの朝』をはじめ、多くの洋楽のカバー曲を歌っていたのも前野さんの特徴です。
新型コロナウイルス感染症の流行でふたたび注目を集めた1981年の角川映画の大作『復活の日』で、ジャニス・イアンが歌ったテーマ曲『ユー・アー・ラヴ』の日本語バージョンを担当したのも前野曜子さんでした。
さらにジャニス・ジョプリンの名曲『Move Over』のカバーも一聴の価値ありです。
前野曜子は宝塚出身、芸名は弓千晶
幼い頃からピアノや日本舞踊などの習い事をしていた前野曜子さん。
歌は中学生のときからスタンダードジャズを習い、高校に上がると、友人とジャズ喫茶荒らしをするようになりました。
宝塚をめざしたきっかけは、このジャズ喫茶荒らしにあったようです。
高校生なのにジャズ喫茶に入り浸る娘を心配した母親が、「芸能の世界をめざすなら、きちんと勉強しなさい」と厳しくも温かいアドバイスをしたおかげで高校を2年で中退し、宝塚音楽学校に入学することになったのです。
2年後には、第53期生として宝塚歌劇団へ入団。
同年、「弓千晶」の芸名で星組公演『世界はひとつ』で初舞台を踏みました。
宝塚時代は娘役として舞台に立ち、東京公演のときはシャンソン喫茶・銀巴里によく顔をだしていたそうです。
ですが残念なことに、ほどなくして体調不良により退団。
このことについて、「身体が丈夫だったら、今も宝塚にいたかもね」と11年後のインタビューで振り返っていました。
『蘇える金狼』の主題歌を歌った年です。
40歳で夭折したことが非常に惜しまれる前野曜子さん。
いまだに彼女をリスペクトするアーティストが多いことも、伝説のディーバたらしめている大きな理由ではないでしょうか。
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