女性の音域を持つソプラニスタと呼ばれる男性ソプラノ歌手・岡本知高(おかもとともたか)さん。
天性の歌声の持ち主である彼の心には多くの苦悩が刻まれ、これまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。
今回は、岡本さんの若い頃にまつわるエピソードと、彼が子供の頃に患った難病や学歴についてお伝えします。
岡本知高のプロフィール
愛称:オカモトさん
本名:岡本知高(おかもとともたか)
生年月日:1976年(昭和51年)12月3日
身長:175cm
出身地:高知県宿毛市
最終学歴:国立音楽大学声楽科卒業
所属事務所:ホリプロ
岡本知高、若い頃は中島啓江に憧れる
岡本知高さんといえば、その歌声もさることながら、ド派手な衣装を着てステージに立つ姿も印象的です。
彼の衣装は、ドラゴンクエスト・シリーズのキャラクターデザインを手掛ける鳥山明(とりやまあきら)さんの色づかいを参考にしているといいます。
色鮮やかでオリジナリティに溢れた衣装を身に纏い、大きな体をも武器に変えて全身で歌う岡本さんは、まさに表現者。
そんな岡本さんの姿からは考えにくいことですが、若い頃はその体型に少なからずコンプレックスを抱いていたそうです。
岡本さんが今のような表現者としての道を歩むきっかけとなったのは、あるアーティストの存在だったといいます。
テレビで見た中島啓江が殻を破った
岡本さん自身が目標としてきた憧れの存在だと語るアーティストは、オペラ歌手の故・中島啓江(なかじまけいこ)さんです。
中島さんといえば、岡本さんと同じく大柄な体型の持ち主ですが、全く臆することなくステージに立ち全力で歌う姿が記憶に残っています。
子供の頃から大柄な体型だったという岡本さんは、思春期を迎えるころになると自身の体型にコンプレックスを抱くようになったといいます。
そんな岡本さんが中学生だった頃にテレビではじめて中島さんを見かけて、そのパフォーマンスにすっかり圧倒されてしまったのだとか。
色とりどりの華やかな衣装に身を包みスクリーンに映し出される中島さんの姿は、キラキラと眩しく輝いていたといいます。
そんな中島さんを見た岡本さんは、これこそが表現するということなんだとハッとしたそうです。
表現者には恥じることも、照れることも意味はないことに気づかされたといいます。
その瞬間、自分を取り囲んでいた殻は破られ、以来、表現者としての中島さんが目標になったそうです。
自分の殻を破れた瞬間はここでした。それからは中島さんが表現者としての目標になりました。
それから時が経ち、プロのソプラノ歌手になった岡本さんは、憧れの中島さんと数々のコンサートで共演を果たしました。
2012年に発売された中島さんのアルバム『赤とんぼ』には、2人のデュエットも収録されています。
中島さんも父の暴力に苦しむなど壮絶な経験の持ち主ですが、ステージではそのことを微塵も感じさせることなく、若かりし頃の岡本さんに影響を与えていたのですね。
40代になってから変わった幸せ
2023年現在46歳になった岡本さんですが、最近、幸せの感じ方が若い頃から変化したといいます。
2022年5月に放送されたTBSのラジオ番組に出演した岡本さんは、40代になってから若い頃と変わったと感じることについて語りました。
なんでも、40代になってからは無駄なものが削ぎ落されて、自分が必要としているものが明確になったのだとか。
欲しいか欲しくないか迷ったときは買わずに済ませるようになり、人との付き合い方にも変化が表れたそうです。
周囲の人から大人として扱われることが普通になり、幸せの感じ方というものが若い頃とは違って多彩になったといいます。
周りからも大人としてみていただけるし、幸せの感じ方も、若い頃と変わってきた、というか…多彩になってきた感じがします。
たしかに、若い頃はやりたいことや欲しいものが沢山あって目移りしてしまうものですよね。
落ち着いた大人の男性となった岡本さんは、表現者として、これからのステージでどのようなパフォーマンスを見せてくれるのでしょうか。
岡本知高が患った難病ペルテス病
岡本さんは、子供の頃に難病とされているペルテス病を患い、約4年間にわたって闘病したといいます。
ペルテス病とは、大腿骨頭(太ももの骨の付け根)が壊死してしまう病気で、激しい痛みを伴うことが多く、歩行困難・あぐらをかけないなど、その初期症状は様々です。
小児が成長過程で患い、5歳から7歳の男児が多く発症するとされています。
原因についてはまだよく分かっておらず、予防法のようなものは存在しません。
そのため、早期発見・早期治療が基本となり、治療法は手術・牽引など病状に応じてケースバイケースですが、日本では手術をしない保存療法が主流です。
基本的には壊死した大腿骨頭に体重による負荷を掛けないようにして再生を待ちますが、できるだけ丸くきれいに再生するようによく動かす必要もあります。
股関節の炎症から来る腫れが引くまではベッド上での牽引が主な治療となり、その後は、体を支える装具を装着して徐々に慣らしていくのです。
治癒するまでには数年間を要するため、施設に入所し長期に及ぶ経過観察が必要とされています。
岡本さん自身も養護学校(現・特別支援学校)併設の医療施設で小学1年生から4年生まで過ごしたそうです。
昼間は左足に装具を装着して、夜寝るときはベッドで両足を牽引するという毎日を送ったのだとか。
ぼくはペルテス病という股関節の病気で、左脚に装具をつけて、それが左脚の代わり。
岡本さんは、自分と同じような境遇の子供たちと過ごした養護学校は、とても明るくて良い雰囲気だったと語っています。
とはいえ、幼い子供が親元を離れて暮らすというのは想像以上に大変でしょうし、辛いときもあったことでしょうね。
岡本知高の学歴が凄い!特別支援学校から音楽大学
岡本さんはペルテス病の治療のため、小学1年から4年までを高知県⽴療育福祉センターに隣接した高知県立高知若草特別支援学校で過ごしています。
当時は養護学校だったこの学校は、周囲を山や田畑に囲まれた自然あふれる場所にありました。
岡本さんの自宅からは100キロ以上も離れた場所にあり、高速道路がなかった頃は車で片道3時間もかかったそうです。
土日は自宅に帰ったそうですが、行き帰りの車内では母と一緒に四季折々の景色を見ながら歌って過ごし、これが彼の歌の原点になったといいます。
ペルテス病が完治した小学5年生からは自宅から小・中学校に通い、その後は、高知県立宿毛高等学校に入学。
ここでは吹奏楽部に所属してアルトサックスを演奏していました。
音楽教師になる夢を抱いて声楽を志し、受験に備えて万全の体制を整えたのだとか。
そして進学したのが東京の国立音楽大学(くにたちー)です。
1999年に同大学声楽科を準首席卒業した岡本さんは、フランス・パリのプーランク音楽院に留学し、2002年に首席で卒業します。
プーランク音楽院を審査員満場一致の一位を獲得し首席で修了
岡本さんの学歴を見ると、さすがソプラニスタと呼ばれる天性の才能の持ち主といったところです。
しかし、ペルテス病や養護学校での日々などの様々な経験があるからこそ、今日の彼の歌声に輝きと彩りが加えられているのだと言えるでしょう。
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