勝野洋(かつのひろし)さんは若い頃に「太陽にほえろ!」や「俺たちの朝」で大ブレイクをし、今も名俳優として活躍しています。
実家は旅館を営んでいました。
父親はボルネオ戦を経験されているそうです。
妻のキャシー中島さんとの結婚の馴れ初めはどんなものだったのかなどについてお伝えしていきます。
勝野洋のプロフィール
本名:勝野六洋(かつのむつひろ)
生年月日:1949年7月27日
出身地:熊本県阿蘇郡
身長:181cm
最終学歴:青山学院大学卒業
所属事務所:ホリプロ・ブッキング・エージェンシー
勝野洋の若い頃
1974年に出演した「太陽にほえろ」で一躍有名になった勝野洋さん。
爽やかで素敵な俳優ですよね。
2023年現在は74歳になっておられますが、若い頃から今まで長く俳優として活躍されています。
今回は勝野さんの若い頃の様子を調べていってみましょう。
勝野さんは熊本県阿蘇郡小国町という杖立温泉のある町で生まれ育っています。
中学、高校は熊本市内にある学校に通うために実家から離れて下宿暮らしをしていました。
高校卒業は青山学院大学へと進学し寮生活をしています。
当時の寮では上下関係は厳しかったといい窮屈な生活を送っていたそうです。
あまり寮での生活が合わなかったようで後に寮を出て4畳半一間の部屋で友人と下宿生活を始めています。
そんな大学時代でしたが、勝野さんは知り合いのつてでモデルのアルバイトを始めCMに出演。
このアルバイトが芸能界に入りのきっかけになったそうです。
CMで共演した俳優の大橋一元(おおはしかずもと)さんの紹介で劇団・現代演劇協会に入団し役者の道を志すようになっていきます。
そして1974年当時24歳で『太陽にほえろ!』のテキサス刑事に大抜擢。
『太陽にほえろ!』に出演したのは、石原裕次郎(いしはらゆうじろう)さんに会えるのが楽しみだったからなのですが、当初はゲスト出演だけだったはすがレギュラー出演することになります。
勝野さんが演じたテキサス刑事は大変人気を集め、殉職をした回は『太陽にほえろ!』史上最高の視聴率42.5%を記録しました。
俳優としてはほぼ素人同然で撮影に臨んでいましたので、NGも何度も出しあまりの疲労で寝坊をして現場で先輩を何時間も待たせたなどというエピソードもあるようです。
ただ、勝野さんはとても真面目で勤勉な性格ですから石原裕次郎さんなどから可愛がられていたといいます。
当時から勝野さんは清潔感の溢れる好青年だったといいますので、先輩方にも印象がよかったようですね。
この出演をきっかに世に広く名前が知られる若手俳優になりました。
その後は次々にテレビドラマで主演をしていきます。
1976年テレビドラマ『俺たちの朝』では熱血軽妙な好青年を演じて大ブレイク。
【ちょっと一興😉】
モノクロ(番宣用)▶カラー
ドラマ『俺たちの朝』〔NTV/1976~77年放送〕より
(右から)#長谷直美 #勝野洋 #小倉一郎 @retoro_mode pic.twitter.com/hqUjSq3mPR
— しがない三四郎 (@shinya_bokudake) July 8, 2023
このドラマは1976年10月から1977年11月まで全48話放送されています。
翌年には『夜が崩れた』で映画デビュー。
同年にはテレビドラマ『姿三四郎』でも主演を務めています。
#私の好きな三部作
勝野洋三部作
「太陽にほえろ!」
「俺たちの朝」
「姿三四郎」 pic.twitter.com/K9kGt9etPT— Ichiki-T R (@ichiking0102) August 24, 2019
その後も次々に映画やドラマで主演に抜擢され時代劇もこなし一流俳優の仲間入りを果たしました。
プライベートでは1978年に当時モデルをされていたキャシー中島さんと結婚をしています。
勝野洋の実家は旅館
勝野さんの出身は熊本県阿蘇郡小国町。
杖立温泉という由緒正しい温泉街です。
昔から泉質が良いということで評判を呼び「湯治の街」として有名で、昭和の時代には「九州の奥屋敷」として賑わっていました。
勝野さんの実家も旅館を営んでいたそうなのです。
旅館は4階建ての建物で、勝野さん家族が暮らすスペースもその中にありました。
お酒を飲んだお客さんの陽気な歌声が聞こえてくるような明るい雰囲気の場所で育ったといいます。
常に大勢の人で賑やかな雰囲気の旅館という環境で小学校まで育っています。
旅館の名前を調べてみたところ、「久留米館」という旅館だったという情報が見つかりました。
勝野さんの祖母が旅館を経営していたようなのですが、2023年現在は営業をしておらず旅館の建物などもすでに存在していないようです。
杖立温泉がある町で、私が子どものころは全国でも有数の歓楽温泉街として特に賑わっていました。実家はここで旅館を営んでいました。4階建ての建物の中には私たちが生活する部屋もありましたから、当時の我が家といえば常に酒を飲んだ人たちの陽気な歌声が聞こえてくるような場所。だから、幼いころ最初に覚えた歌っていうのは、“月が出た出た”の『炭坑節』ですよ。いわゆる「家族の住まい」というよりは、いつも大勢の人がいてワイワイと騒いでいる。そんな環境で育ちました。
勝野洋の父親はボルネオ戦の体験者
勝野さんの両親は離婚をいて、勝野さんは父親に引き取られました。
父親は自衛隊員で父親もまた両親が離婚をしていて、母親に引き取られたものの母親は再婚をして相手には3人の子供がいたため家族とは疎遠になっていったそうです。
身寄りのいなかった父親は戦争勃発のさいには満州へと出征しました。
居場所は軍にしかなかったので軍で必死に働き、予備士官学校への入学が認められて卒業後には軍人将校を志しています。
戦況は悪く日本軍の敗戦が続く最中、父親はボルネオへの派遣が命じられて群を率いることになりました。
この派遣は自らの命を捨てにいくようなほど不利な命令だったようです。
案の定、次々と部下たちが命を落としていきました。
部下の2000人中の半数以上が命を落とすという悲惨な状況だったようです。
この戦いは、後に「ボルネオ死の行軍」と言われました。
ボルネオでは600キロの行軍の中で、1万人近くの日本人が命を落とした。父はその「死の行軍」の数少ない生き残りだったのだ。
終戦を迎え、父親は自身の母が暮らす熊本県小国町へと身を寄せています。
たくさんの部下が命を落としたのに自分が生き延びてしまったことには慙愧の念があり、亡くなった部下の家族に手紙を書いたり足を運んだりしていたそうです。
復員の1年後には勝野さんの母親と結婚をして、その1年後には長女、2年後には勝野さんが誕生しています。
父親は国鉄に再就職したのですが、人間関係が上手くいかず衝突することが多く退職。
警察予備隊が組織されるとそちらへ入隊し単身赴任となり、その間に離婚をしてしまいます。
父親に引き取られた勝野さんですが育ててくれたのは祖母でした。
生前はずっと亡くなった部下たちのことを考えるような真面目な性格の父親だったようで、亡くなる際には「部下が迎えに来た」とつぶやいたといいます。
最後まで戦争を引きずって亡くなったというほど戦争は惨いものだったということを再認識させられるようなエピソードですよね。
キャシー中島との馴れ初めは一目ぼれだった
勝野洋さんとキャシー中島さんは1978年に結婚をしています。
2人の馴れ初めはどんなものだったのでしょうか。
調べてみたとこ、先に好きになったのはキャシー中島さんだったということが判明。
それまで共演の機会などはありませんでしたが、勝野さんが出演してた「ひまわりの家」を見て一目ぼれをしてしまったキャシーさん。
勝野さんのような真面目な人と結婚をしたいと思ったといいます。
そこで、勝野さんの行きつけの店を特定して毎晩その場所で張っていたというキャシーさん。
ものすごい行動力ですよね。
勝野さんがお店に現れるとキャシーさんは一緒にお酒を飲むようになっていきました。
2ヶ月後にはキャシーさんから自宅で猫を飼っているから見に来ないかと勝野さんを誘い、その日から2人は一緒に生活を始めたそうです。
付き合い始めてからわずか2ヵ月でゴールインをしています。
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