曽我部恵一の若い頃。父親や弟は一般人。実家は香川県坂出市&性格は適当?

曽我部恵一(そかべけいいち)さんは、1994年7月21日にサニーデイ・サービスのボーカル&ギターとしてミニアルバム「INTERSTELLAR OVERDRIVE EP」でメジャーデビューしました。

当時の若者の間ではカリスマ的人気を誇っていましたが、曽我部さん自身はどんな方なのか、あまり知られていないと思われます。

そんな曽我部さんについて、調べてみました。

曽我部恵一のプロフィール

本名:曽我部恵一

生年月日:1971年(昭和46年)8月26日

出身地:香川県坂出市

最終学歴:立教大学法学部中退

所属事務所:MUGEN

曽我部恵一の若い頃の経歴まとめ

曽我部恵一さんは、素朴な日常を詩的な表現で描く歌詞が文学的な評価が高く、独特な世界観を持っています。

そんな曽我部さんは、香川県坂出市に生まれました。

両親と2人の弟がおり、長男です。


幼少期はテレビから流れる日本のポップスを聴いていましたが、洋楽に目覚めたのは中学時代に聞いたカルチャークラブだったそうです。

衝撃を受けた曽我部さんはすぐに同級生とバンドを結成し、セックス・ピストルズやバズコックス、ダムドなど、パンクロックのコピーバンドで活動していました。

特にセックス・ピストルズの「Anarchy In The U.K」に感銘を受け、背筋に電流が走ったのを感じたそうです。

高校生になるとレコードを集める事が趣味になり、バンド活動は休止していました。

ですが、高校3年生ごろから世の中の流れがCDに比重が重くなり、「レコード針の生産が終了する」というニュース記事を読み、恨みを覚えるほどだったそうです。

中学生からずっとお小遣いをためて買い漁ってきたレコード文化が終わりを迎えると知り、非常に悲しかったそうです。

多くのレコードを集めていたことから、様々なジャンルの音楽に触れていたという曽我部さん。

当時はバディ・ホリーやエルヴィス・コステロ、オーティス・レディングやリズム&ブルースなどにも興味を持っていたそうです。

そしてその頃に初めてライブを見たのは、ブルーハーツだったそうです。

ブルーハーツの存在に衝撃を受けた曽我部さんは、東京の大学に進学し、東京でバンドをすると決意しました。

決意通り東京にある立教大学に合格し上京することになり、入学するとすぐさま音楽サークルに入り音楽漬けの日々を送りました。

「東京でバンドを組む!」という意気込みだったのですが、実際バンドを結成すると、ドラムのメンバー以外は高校の同級生や地元から友達だった仲間。

東京まで行ってなぜか地元の友達とバンドを組む、という不思議な状況だったそうです。


その頃のメンバーとは、インディーレーベルから「SUPER DISCO」というアルバムを発売しています。

当時のサニーデイ・サービスは世間で流行っていた「渋谷系」の流れをかなり意識した作りで、悪い意味で「ポスト・フリッパーズ」と呼ばれ、あまり評価されませんでした。

そして曽我部さんは流行りを追いかけるのをやめ、自分達らしい音楽作りを目指し始めます。

しかし、他のメンバーとの間に方向性の違いが生じ、バンドは分裂してメンバーは田舎に帰ってしまいました。

それ以降の曽我部さんは模索の日々を過ごしましたが、1995年初頭にエレクトリック・グラス・バルーンの元メンバー・丸山春茂さんが加入。

曽我部さんと田中貴さん、そして丸山さんによる2024年現在の形のサニーデイ・サービスができあがりました。

それからは1970年代のフォークを思わせるような独自のエッセンスを取り入れ、3月21日に「ご機嫌いかが?/街へ出ようよ」をリリースし、新たなるデビューを踏み出しました。

それ以降は、それまにない感覚の楽曲が若者に人気を博し、人気バンドへとなっていきました。

父親や弟は一般人。実家は香川県坂出市

曽我部恵一さんの実家は香川県坂出市にあります。

曽我部さんの父親に関しては、一般人のため名前や顔写真などの情報は一切公開されていません。

また、幼少期の思い出などを語るときも父親について語られたこともなかったので、どういった父親だったのかも明らかになっていません。

ですが、曽我部さんへのインタビューから2021年の5月に他界されたそうです。

家族から危篤という連絡があり、実家へ帰って看取られたそうです。


悲しいという感情よりも、父親の人生に対し「このドラマはもうすぐ終わるんだな」という感覚があったそうです。

非常に曽我部さんらしい感想ですね。

そんな曽我部さんには、弟さんが2人いらっしゃいます。

どちらも一般人のため、名前や顔写真などは明らかになっていません。

まだ曽我部さんが25歳の頃、雑誌の取材で当時住んでいた部屋を紹介されていましたが、その部屋は弟さんとシェアされているそうでした。

キッチンとバスとトイレ付きで、都内私鉄沿線の駅から徒歩5分という良い立地でしたが、割安だったそうです。

写真付きで紹介されていましたが、曽我部さんらしくレコードが所狭しと並べられており、もしかしたら弟さんも同じレコード収集の趣味があったのかもしれませんね。

ちなみに2人いる弟さんのどちらとシェアされていたのかは、わかっていません。

性格は適当?

曽我部恵一さんは、ご自身では自分の性格を「適当」と思っているそうです。

ですが、女の子2人と男の子が1人の3人の父親でもある曽我部さん。

お子さんが幼稚園の頃には毎日お弁当を作っていたそうです。

お子さんが高校生になった時にも毎日お弁当を持たせていたのだとか。

料理に関しても「適当」にされていたそうですが、毎日お弁当を持たせていたなら、子供に対して適当に接していたわけではないでしょう。


非常に子煩悩で優しい性格のお父さんではないでしょうか。

曽我部さんが作ったお弁当を、ぜひ一度見て食べてみたいですね。

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