吉田日出子、現在(2024)は病気で療養中。若い頃から個性的&母親は医師だった

吉田 日出子(よしだ ひでこ)さんは類まれなる演技力と独特の口調で人気を集め、1989年に公開された映画「社葬」で日本アカデミー助演女優賞を受賞しています。

順調に仕事をしていたにもかかわらず突然姿を消してしまいましたが、その背景には想像もしなかった驚くべき病気がありました。

今回の記事では吉田さんの2024年現在や病気、若い頃や母親について見ていくことにします。

吉田日出子のプロフィール

本名:平松 日出子(ひらまつ ひでこ)

出身地:石川県金沢市

生年月日:1944年1月7日

主な作品:舞台「上海バンスキング」

吉田日出子、現在(2024)は記憶障害の病気で療養中

まずは多くの人が気にする吉田日出子さんの2024年現在と病気について見ていきましょう。

吉田さんはドラマや映画、舞台からバラエティまで幅広く出演していました。

しかし、2007年頃から急激に見かける機会が減り、2024年現在はほぼ音信不通状態になっているそうです。


表舞台から姿を消した理由について調べると、昨今ありがちのスキャンダルで活動休止に追い込まれたというわけでは無く、高次脳機能障害という病気が原因であることが分かりました。

病気については吉田さん自身が2014年11月発売のエッセイ「私の記憶が消えないうちに」の中で明かしており、台詞や歌詞を忘れることが多くなって仕事をすることが難しくなったそうです。

2000年台半ば頃から慣れた道を迷ったり、台詞の覚えが悪くなったことから専門医の診察を受け、そこで脳の前頭葉に傷が見つかって高次脳機能障害と診断されました。

前頭葉の傷について吉田さんは、愛犬と公園を散歩中に猫が飛び出し、猫を追いかけた犬に引っ張られて公衆トイレに頭をぶつけたことが理由かもしれないと語っています。

ただ、自分が病気になった責任を愛犬に負わせることはしたくないとも語っており、自身の不幸を恨むことなく以前と変わらぬ優しさを持ち続けていることに驚かされました。

2010年に代表作「上海バンスキング」で復帰をしたものの、共演者のフォローやプロンプターの声を聞き取るための特製イヤホンが必須で、納得する演技ができなかったそうです。

その後は目立った活動もなく、2024年現在も仕事に復帰したという情報はありません。

しかしながら、高次脳機能障害はアルツハイマーと違って改善の余地があるので、療養とリハビリに取り組み、いつの日か元気な姿を見せてくれることを祈るばかりです。

若い頃から自分の世界を持つ個性派

この項目では吉田日出子さんの若い頃について見ていきます。

吉田さんは独特のオーラを持った稀有に俳優ですが、若い頃からその片鱗がありました。

東京都立北園高校に入学して最初はバスケット部に入った吉田さん。

しかし「疲れる」という理由で退部し、次に演劇部に入ったという珍しい経歴を持っています。

演劇部ではガムを噛みながら稽古をして先生に怒られるという問題児でしたが、その当時から演技の才能はズバ抜けており、実力で黙らせたという貫禄の学生でした。


高校を卒業後に俳優座養成所へ入り、劇団文学座の研究生を経て1966年に串田和美さんと「自由劇場」を立ち上げています。

早くに独立して自分の劇団を立ち上げた経緯は不明ですが、演技をすることに対して並々ならぬ熱意を持っていたことは間違いないでしょう。

また、立ち上げた翌年には劇団公演「あたしのビートルズ」・「赤目」で紀伊國屋演劇賞を受賞しているので、独立が世間に才能を知らしめることに繋がったとも言えます。

有名になってからの演技が個性的だと話題になりがちですが、若い頃の練習スタイルや伝統ある劇団文学座を辞めて独立をする積極性も負けず劣らず個性的なものでした。

ただ、指導という圧力や独特の空気がある芸能界においては、吉田さんの様に持って生まれた個性を保ち続ける意志の強さこそが最も大事なのかもしれませんね。

母親は内科小児科の医師

最後に吉田日出子さんの母親が医師だった件をチェックしておきましょう。

日出子さんの母親は正子さんといい、1915年に生まれたと言われています。

東京にある帝国女子医学専門学校の学生だった20歳のときに彫刻家を志していた平松豊彦さんと結婚し、しばらくして長女と日出子さんが誕生しました。

日出子さんの出身が石川県金沢市になっている理由は、徴兵された豊彦さんが金沢基地に駐屯しており、出征前に会わせてあげたいという思いで東京から来て出産したからです。

残念ながら豊彦さんは1944年にフィリピンのレイテ島で戦死してしまいましたが、出発前に日出子さんと一目会えたのはせめてもの慰めと言えるかもしれません。

正子さんは終戦の混乱が収まった1947年に娘を連れて東京に戻り、そこで再婚をしています。

東京では勤務医として懸命に働き、日出子さんが中学生の時に東京都赤羽で内科小児科医院を開業し、86歳まで地元の人に慕われる町医者として仕事を続けたそうです。

また、日出子さんのエッセイ「私の記憶が消えないうちに」では”三度結婚した”と紹介されていますが、あまり詳しいことは分かっていません。


近況については前述のエッセイで療養中の日出子さんと同居をしているとの紹介があるので、母だけでなく医師として娘を支え続けている姿が想像できます。

正子さんの波乱に満ちた人生を見ると、道は違えどもよく似た親子という印象を受けました。

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