古田敦也(ふるた あつや)さんは平成を代表するキャッチャーですが、リード以外にもキャッチングや盗塁阻止率がすごかったそうです!
今回は古田敦也さんのキャッチングや盗塁阻止率、現役時代の年俸や名言について見て行こうと思います。
古田敦也のキャッチングや盗塁阻止率のすごさとは
一般的に盗塁阻止率が高いキャッチャーは「とにかく肩が強い」と思ってしまいがちですよね。
中には元・ソフトバンクホークスの城島健司さんのように”しゃがんだまま二塁に投げられる”という「地肩が強い」タイプもいます。
一方で古田敦也さんは驚くほど肩が強いわけでは無かったらしく、どちらかと言えば”技で刺す”タイプでした。
つまり、二塁への送球を速くするよりも「送球するまでの時間を短くする」を重視していました。
肩の強さは生まれ持っての能力が大きいですし、肩の筋力は年齢を重ねる事で衰えて行く部分ですよね。
体力(力任せ)の送球よりも動作やコントロールの方が盗塁阻止率に影響するそうです。
古田敦也さんは捕球から送球までの時間が短く、送球のコントロールも抜群だったことが阻止率の高さに繋がっています。
現役時代の最高阻止率は1993年の0.644(盗塁45回中 29回アウト)ですが、この数字は日本のプロ野球記録として今も残っています。
さらに注目すべきは2000年に0.630(盗塁73回中 46回アウト)を記録していますが、この時の古田さんは35歳でした。
年齢的な衰えもありながらこの記録を叩き出せたのは技術だけでなく、ピッチャーとの呼吸や配球が大きかったのだと思います。
体力面での衰えは最高記録時より”28回も多く塁を狙われている”事からも見て取れます。
ランナーが「古田さんはもう年だし・・」と思って走ると痛い目に遭った感じでしょうね(笑)
古田敦也さんが残した現役時代の通算盗塁阻止率(0.462)は日本記録で、4割を越えれば一流と言われる盗塁阻止率を入団から13年連続で記録していました。
古田敦也の年俸
古田敦也さんは1989年のドラフト2位でヤクルトスワローズへ入団(契約金4300万円・年俸700万)しました。
入団一年目からレギュラーの座を勝ち取り、3年目には【打率.316 HR30本 86打点】を記録してオフに1億2000万円で契約更改しました。
これだけ打って守れるキャッチャーは10年に1人出るかどうかですし、成績も立派なので年俸1億円越えも特に驚かれませんでした。
1999年から2003年までの5年間は年俸2億円で固定されていますが、これは5年間の複数年契約を結んでいたからでした。
2004~5年は3億円で合意し、41歳の時に監督兼任になった際の3億4000万円が最高年俸でした。
時代が違うとはいえ、古田敦也でも3億5000万円は行ってなかったんだよな。山田哲人はそれに値するとはいえ、今の年俸がいかに高額か、よくわかる。
つば九郎も、交渉がんばれ(笑)#swallows #つば九郎#山田哲人 https://t.co/oN06eFL4v3— gensuke (@gensuke_sak) 2016年12月21日
最近は年俸の上がり方が凄い印象を受けますが、今の時代に古田敦也さんがバリバリやっていたらどのぐらい貰ったか気になります(笑)
ただ、年俸が上がれば上がるほどファンからの成績への見方が厳しくなりますよね。
古田敦也は名言を残していた
ここでは古田敦也さんが残した名言について紹介して行こうと思います。
1000回の素振りより、優れたプレーを見るのが向上の近道。
打てない人が1000回素振りしても確かに意味は無いですし、野球に限らず多くの事に通じる名言ですよね。
弱点を逆転の発想で強みに変えてしまうのが、日本野球の象徴というべきところではないでしょうか。
古田敦也
— プロ野球名言bot (@m1540615224) July 25, 2018
こちらも野球に限らず多くの事柄に通じる名言だと思います。
自分の弱点を認めたくない気持ちを乗り越え、弱点の克服よりも他に優れている部分を伸ばす事が大切ですよね。
情報を柔軟に取り入れて行く事も重要だと思います。僕らはプロですから、相手も進化しているので、同じ手が通用し続ける事はない
過去の成功体験や実績から逃れられず、才能を発揮する事が出来ない例は様々な世界でありますよね。
さすがキャッチャーだけあって発想や思考面の発言が多く、野球に限らず多くのスポーツや仕事でも通じる名言が多かったですね!
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