工藤公康の経歴まとめ。中学や愛工大名電でも活躍。引退後に筑波大学へ進学

工藤公康(くどう きみやす)さんは名選手と呼ばれるにふさわしい経歴を残して引退しました。

学生時代を含めれば30年以上を野球選手として過ごし、引退後は有名大学へ進学したそうです。

今回は工藤公康さんの経歴や学生時代の活躍、筑波大学へ進学した件について見て行きます。

工藤公康のプロフィール

生年月日:1963年5月5日

出身地:愛知県名古屋市昭和区

身長:176cm

血液型:O型

最終学歴:名古屋電気高校

工藤公康のプロ野球での経歴が凄い!

まずは工藤公康さんのプロ野球での経歴について見て行きます。

1981年のドラフト会議で6位指名されて西武に入団した工藤公康さんですが、当時の広岡達朗監督はドラフト指名を求めた経緯もあって1年目から中継ぎで起用されていました。


厳しい指導で恐れられていた広岡達朗監督から「坊や」と可愛がられていただけでなく、アメリカへの野球留学を許可されるなど秘蔵っ子として期待されていました。

入団4年目(1985年)には先発へ転向して8勝3敗を挙げてチームの優勝に貢献し、自身初となるタイトル・最優秀防御率(2.76)を獲得して広岡達朗監督に恩返しをしました。

1993年には15勝3敗の好成績を残し、最優秀防御率・最高勝率・ベストナイン・パ・リーグMVPなど数々の賞を受賞しますが、意外にも最多勝のタイトルは獲ったことがありません。

そして、1994年オフにFA権を行使して西武から福岡ダイエーホークスに移籍しました。

凄腕の優勝請負人

ホークスでは投手以上に「優勝請負人」として存在感を発揮しており、まだ若手だった城島健司さんを指導して日本を代表する名捕手に育てたことでも知られています。

1999年に11勝を挙げてホークスを(福岡移転後)初のリーグ優勝に導き、日本シリーズ第1戦でもシリーズ新記録となる13個の奪三振&完封勝利で日本一の原動力となりました。

ホークスの日本一を見届けて再びFA権を行使し、憧れだった読売ジャイアンツへ移籍しました。

ジャイアンツ1年目の2000年には1996年以来となるリーグ優勝&日本一を達成し、2002年にも再びリーグ優勝&日本一を達成するなど「優勝請負人」として活躍しました。

ところが、2006年オフに門倉健選手が横浜ベイスターズからジャイアンツにFA移籍した人的補償として放出され、2009年オフに戦力外(自由契約)になりました。

そこで古巣の西武が獲得を表明して契約しますが、残念ながら未勝利でシーズンを終えてオフに球団から戦力外通告を受けて再び自由契約になりました。

諦めず現役続行を表明するものの声は掛からず、2011年12月9日にブログで引退表明しました。

西武時代は主力投手として活動した工藤公康さんですが、それ以降は「優勝請負人」としてチームの意識改革や若手の育成でも実績を残した名・野球人と言って良いでしょう。

通算勝利(224)や歴代1位タイとなる実働29年だけでなく、日本シリーズに14回出場した事こそが工藤公康さんを表現するのにピッタリのデータなのかも知れませんね。

解説者や評論家としての活躍

工藤公康さんのこれまでの経歴を振り返るなら、現役引退後の活躍も見逃せません。


2011年は、解説者になることを宣言していました。

この日、都内で行われた文化放送のイベントに出席。来季から野球選手ではなく、同社の解説者として再出発することを明言した。

この発言のとおり、その後は解説や評論の仕事を精力的に行うようになります。

どんな仕事ぶりを見せてくれるのか、期待しながらテレビ番組をチェックしていたファンも多いのではないでしょうか。

2012年は、『報道ステーション』のスポーツキャスターにも就任。

現場で取材の仕事もこなすようになりました。

就任時は、キャスターとしての意気込みも語っています。

野球の面白さ、奥深さ、選手の葛藤を僕なりの目線で伝えていければ。

野球にあまり詳しくなく、現役時代の活躍も知らない人たちは、「あのスポーツキャスターの人」という印象を抱いたかもしれません。

長年の経験を活かし、新たな仕事につなげていったのは、すごいことですね。

ちなみに、『報道ステーション』キャスターは栗山英樹さんの後任。

同年には、『熱血甲子園』のキャスターも栗山さんから引き継いでいます。

監督時代は圧倒的な強さで人気

2014年からの工藤公康さんは、監督として活躍するようになりました。


秋山幸二さんから福岡ソフトバンクホークスの監督を引き継ぐと、驚くような成績を残しています。

工藤監督は在任7年間で978試合558勝378敗42分け(勝率.596)をマーク。CS通戦成績は24勝8敗で、敗れたのは日本ハムとの2016年ファイナルステージのみだった。

この強さに度肝を抜かれたファンも多かったようで、監督引退の際は、その才能を絶賛する声が上がりました。

大興奮の試合をたくさん見ることができた7年間は、熱心なファンにとって忘れられないものになっていることでしょう。

満面の笑みで喜ぶ様子にも、好感を抱く人が多かったのではないでしょうか。

選手たちの活躍を心から褒める監督というのは、とてもいいですよね。

そんな人柄も、素晴らしい結果を出せた要因のひとなのかもしれません。

近年のインタビューでは、選手に何かアドバイスをするとき、言い方や言葉の選び方などに注意していたことも明かしていました。

ただ厳しいだけでなく、とても丁寧な監督だったことがわかりますね。

ちなみに、2021年10月の監督引退後は、再び解説者としての仕事に戻っています。

監督を経験したことで、ますますレベルアップした活躍を見せてくれそうです。

工藤公康は中学や愛工大名電時代も活躍していた?

次は工藤公康さんの中学や高校時代の活躍ぶりについて見て行きましょう。


これだけの投手なので中学の頃から凄いと思いがちですが、通っていた名古屋市立・久方中学校で最初は野球部ではなく”ハンドボール部”に所属していたそうです。

強肩だった事からハンドボール部の顧問から野球部への移籍を勧められて転部し、実力が評価されて特待生で名古屋電気高校(今の愛知工業大学名電高校)に進学しました。

3年の夏に甲子園に出場を果たし、初戦の長崎西高校戦では16奪三振でノーヒット・ノーランを達成していますが、これは四球をひとつ与えただけなので準完全試合と言えます。

準決勝で報徳学園に敗れてしまいましたが、工藤公康さんは4試合39イニングで56個の三振を奪うなど愛工大名電のベスト4進出に貢献してプロから注目を集める存在になりました。

卒業後は西武ライオンズと熊谷組のどちらに進むかで大変な騒動になりましたが、大きな会社が必死になって取り合うほど凄い高校生投手だったと言うことになります。

工藤公康は引退後に筑波大学へ進学

工藤公康さんは2014年4月に筑波大学大学院(人間総合科学研究科)に入学していました。

日刊スポーツ評論家の工藤公康氏(50)が、筑波大大学院人間総合科学研究科の入試に合格し、来年4月に入学することが18日、分かった。

人間総合科学研究科では主にスポーツ医学を勉強して野球指導に活かそうとしていましたが、入学した年の11月1日に福岡ソフトバンクホークスの監督に就任しています。

監督就任によって筑波大学大学院は休学扱いになっているものの、工藤公康さんは「いずれ復学して卒業したい」とコメントするなどスポーツ医学の勉強に前向きの様子でした。

その後は、2017年~19年と日本シリーズを三連覇したことが評価され、前述のとおり2021年まで7年間の監督生活を送りました。

ちなみに、同時期に入学した仁志敏久さんと吉井理人さんは2016年3月に卒業しています。


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