東映のヤクザ路線で一躍国民的スターになった菅原文太(すがわらぶんた)さん。
同じく国民的スターだった高倉健さんとは、ともに任侠・ヤクザ映画ブームの立て役者でもあったことから、よく比較されています。
今回は、さまざまな面で対照的だった二人についてみていきたいと思います。
また、元付き人の宇梶さん、『トラック野郎』シリーズの共演者・愛川欽也さんとの関係や、菅原文太さんの男らしいエピソードも紹介します。
任侠路線の高倉健と実録路線の菅原文太!
菅原文太さんにとって、2歳年上の高倉健さんは常に前を行くスターであり、大先輩でした。
2014年、菅原文太さんは入院中に高倉健さん死去の知らせを受けます。
コメントを求められ、「健さん、東映、映画のことは時間をおいて自分で書きます」と返答。
しかし、高倉健さんの死去からわずか18日後、後を追うように急逝。
菅原文太さんは下積み時代が長く、映画会社を転々とし、東映に移籍後、36歳で初主演を果たしました。
東映ニューフェースとして20代から主役を務めていた高倉健さんとは対照的ですね。
『仁義なき戦い』公開時は39歳になっていました。
深作欣二監督によるこの映画は、戦後の広島で起きた暴力団抗争を綴った元組長の手記をモチーフにした作品。
ひと言で言えば、エネルギッシュなアウトローたちの群像劇といったところでしょうか。
それまでの東映は鶴田浩二さんや高倉健さんなどによる着流しスタイルの任侠映画が主流でしたが、『仁義なき戦い』以降は、ドキュメントタッチによる実録路線の極道映画が主流になっていきます。
そしてブームが去った後も、2人は別の道を歩むことに。
高倉健さんが硬派で人間味のあるキャラクターを生かして『幸福の黄色いハンカチ』などに出演していったのに対して、菅原文太さんは『トラック野郎』シリーズなどコミカル路線へ。
また、高倉健さんが「生涯、映画俳優」を貫いた一方で、菅原文太さんは有機農業に取り組み、震災復興や反原発など社会的発言もするようになりました。
奇しくも、高倉健さんの代表作のひとつである『幸福の黄色いハンカチ』のテレビドラマ版では菅原文太さんが主役を務めています。
映画版で助監督、テレビドラマ版で監督を務めた栗山富夫さんの言葉です。
二人は明確にライバルでしょうね。
文太さんは「何も俺は負けてねえよ」って死ぬまで思っていたんじゃないでしょうか、役者として。
しかし、健さんが文太さんを意識していたかどうかはうかがい知れなかったですね。
健さんはそういう意味じゃ面白い人です。
自分のことで精一杯で、人のことなどとんでもないというスタンスじゃないですか。
犯しがたい功績として残っているもの(映画版『幸福の黄色いハンカチ』)をリメイクするというアホな作業ですから、文太さんは当然あの役がはらむ矛盾に気づいたと思います。
それを軽々とかわしながらおやりになった。
どっかで、文太さんは「オレにはこうしかできないよ」って自負はあったと思うんです。
健さんに対する自意識っていうのは相当なものがあったと思いますね。
東映でともに一時代を築き、日本映画界を牽引した2つの巨星。
その生き方を含めて、高倉健さんを「静」とするなら、菅原さんは「動」だったといえるかもしれませんね。
菅原文太の元付き人に宇梶!
暴走族時代の武勇伝がとかくネタにされがちな宇梶剛士さん。
役者を志望していた18歳の時に菅原文太さんに弟子入りして付き人になりました。
それまでは錦野旦さんの付き人をしていたそうです。
あるとき、錦野さんの事務所のおつかいで藤映像コーポレーションというところに行ったら、親父が来ていて、帰ろうとしたら呼び止められて、「おまえ、何者だ。歌い手か」って言われて。
「いえ、俳優になりたいんですが、どうやったらなれるのかわからないので、錦野さんのところでお手伝いをしています」と言ったら、親父はすぐ錦野さんの事務所に電話して、「おたくのところのでかいの、もらっていいか」って。
電話切って、「ということでいいな」って言われて、それで親父の弟子になったんです。
菅原文太さんの急逝は、宇梶さんには当初伏せられていたそうです。
理由は、2日後に舞台の千秋楽を控えていたから。
訃報に接した際は、こんなにうろたえるのかと思うほどうろたえたと告白。
菅原文太さんは常に弱き者の味方だったと述べています。
芸能界の父親からは俳優のあり方など学ぶものは多かったようで、「親父に背かぬように生きていきます」と師匠を悼みました。
『トラック野郎』シリーズの相棒は愛川欽也!
この映画の大ヒットでデコトラが流行し、警察が取り締まりを強化したといういわくつきの作品。
シリーズ10作品で菅原文太さんの相棒・やもめのジョナサン役を演じたのが愛川欽也さんです。
自身の番組に菅原文太さんが出演して意気投合したことが制作のきっかけだったそう。
企画を持ち込むと、菅原文太さんは快諾したといいます。
後年、最終作も打診していたようです。
何年も前、お互い年を取って、最後に最終作をやらないかって。
でも、文ちゃんは「キンキン、もういいんじゃないか」と。
で、その話を止めちゃった。
愛川欽也さんは菅原文太さんの後を追うかのように、2015年4月15日に80歳でこの世を去りました。
男・菅原文太のかっこいいエピソード!
テレビドラマ初出演となった大河ドラマ『獅子の時代』。
菅原文太さんは出演者の待遇の改善を制作側に要求し、NHKを震え上がらせたそうです。
その言い分は、エキストラにも休憩する場所を与えるべきというものでした。
正義の味方ぶるつもりはないが、大部屋もないことがとても奇異に映った。
映画なら撮影所に1人部屋、2人部屋、5人部屋、大部屋とあって、仕出し(エキストラ)の連中だって畳の1畳か2畳はもらえてゴロッと横になれる。
役者は肉体労働。
休める場所、スペースは全員に与えられてしかるべきだ。
下積み時代の長かった役者らしい言葉ですね。
また、2007年に膀胱がんが判明した際はこんな逸話も。
担当医に膀胱の全摘出を勧められた菅原文太さんは、これを拒否。
その時に残した言葉が次のようなものでした。
おしっこ袋をぶら下げて生き延びても、それは菅原文太じゃない。
「男であること」にこだわり続けた生きざまが伝わってくるようです。
菅原文太さんが私たちに見せてくれたのは、今の男たちが忘れつつある心意気や誇りだったのかもしれません。
病を隠してこの世を去った高倉健さん。
秘めやかに逝った菅原文太さん。
いまだに寂しさをぬぐいきれない人は多いに違いありません。
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