江夏 豊(えなつ ゆたか)さんは日本プロ野球界屈指の名投手として今でも知られています。
「優勝請負人」や「20世紀最高の投手」と呼ばれ数々の伝説が語り草の江夏さん。
オールスター戦で9者連続三振を記録するなど球速や投球内容が伝説級と語り継がれています。
意外すぎる球種と球速や通算成績について調べてみました。
また、江夏豊さんの投球や野村克也さんとの関係、古巣の広島への想いに迫りました。
江夏豊の球速や球種について
まずは江夏豊さんの球速や球種について見て行きましょう。
江夏豊さんと言えば剛速球のイメージが強く「150キロ台後半は出ていた」とする声がある一方、本人や対戦相手の王貞治さんは「140キロ後半くらい」とコメントしています。
映像解析などでは「158キロ前後」出ていたとするデータもありますが、マウンドやバッターボックスで見る生の球のスピードは数字と違って感じることが多いと聞きます。
現在はダルビッシュ有さんや菅野智之さんに代表されるように複数の球種を操ることは珍しくありません。
ですが江夏豊さんが投げることが出来たのはストレートと殆ど曲がらなかったカーブの2種類だけ。
江夏豊さんはプロに入るまではストレートしか投げられなかったそうですが、それでも高卒1年目に12勝(13敗)の成績を残しているのでバケモノと言って良いでしょう。
なぜ少ない球種でこれだけの三振の山を築けたのか。
その秘密は江夏豊さんが投げるストレートの球質にあります。
全盛期の球速は150kmと速球派と呼ぶにふさわしいですが、ずば抜けて速いわけではありません。
ですが、江夏豊さんのストレートは2段階で浮き上がったと言われています。
実際に浮き上がったということは無いと思いますが、球筋が他の投手と違ったのは間違いないでしょう。
おそらく初速と終速の差が小さいストレートだったのではないでしょうか。
一説には江夏豊さんはシュートやフォークを投げたとも言われています。
もしかすると今はやりの手元で動くボールを当時から投げていたのかもしれません。
2年目にカーブを習って投げられるようになりますが、当初はあまり得意では無くほとんど曲がらなかったらしく、王貞治さんは”逆に打てない”と笑っていました。
これはカーブの腕の振りでありながらストレートの軌道だったからであり、打席で深く考えないタイプの打者には遅い球だったので簡単に打たれたそうです。
その後の猛特訓でカーブの変化が大きくなりましたが、今度は反対に打席で深く考えないタイプの打者を打ち取り、王貞治さんには打たれるようになったそうです。
他にもフォークやシュートも少し投げていたとも言われていますが、江夏豊さんの球種はストレートとカーブの二種類がメインと言っても良いと思います。
もっとも、このカーブは手首だけで抜くタイプで”ゆっくり大きく曲がる”のではなく、高速でフォークボールのように小さく鋭い変化をするタイプだったそうです。
江夏豊の通算成績
球史に残る数々の伝説を残している江夏豊さん。
一時の輝きで終わるプロ野球選手も多いですが江夏豊さんのどれだけの通算成績を残しているのでしょうか。
江夏豊さんがプロ野球選手歴は18年間。
通算で206勝、158負、193セーブ、防御率は2.49で奪三振は2987個。
受賞歴は最多勝が2回に最優秀防御率が1回、最多奪三振は6回、最優秀救援投手を5回。
更に投手としては最大の名誉である沢村賞も1回獲得しています。
江夏豊さんは記憶にも記録にも残る大投手ということが分かりますね。
その他にも史上初となる両リーグでのMVPや、オールスターゲームのMVPに選ばれるなど、ここ一番での勝負強さもありました。
もし今の時代に江夏豊さんが現役だったらどんな活躍を見せていたのでしょうか。
当時は夢で終わった大リーグ挑戦も果たせていたかも知れませんね。
江夏豊が球史に残した伝説とは?
次は江夏豊さんがプロ野球史に残した伝説について見て行くことにしましょう。
何と言っても多くの人に知られているのは「オールスター9者連続奪三振」です。
パ・リーグの強打者を9者連続で三振に打ち取っただけでなく、自身もバッターとしてホームランを打つなど”投打で大暴れ”をしたオールスターとなりました。
ちなみに、前年から合わせると15者連続三振を記録しています(現在もオールスター記録)
1973年8月30日の対中日ドラゴンズ戦でノーヒットノーランを達成しています。
試合は11回まで延長しましたが、決着をつけたのは江夏豊さんのサヨナラホームランでした!
江夏豊さんが現役の頃から「二刀流」という考えがあれば、江夏豊さんが二刀流の元祖になっていたとも言われています。
現役当時の江夏豊さんを知らなくてもどれだけ凄い選手だったかが良く分かりますね。
金田正一さんや堀内恒夫さん、桑田真澄さんなど名投手は打者でも成績を残していますが、江夏豊さんも負けず劣らずの好成績を残しているのが印象的ですよね。
また、有名なのが「江夏の21球」。
野球に詳しくない人でも言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。
「江夏の21球」が産まれたのは1979年の日本シリーズでのこと。
3勝3敗で迎えた第7戦目でリリーフとして7回から登板した江夏豊さん。
9回裏のノーアウト満塁のピンチを21球で切り抜けた伝説もあります。
初めての日本一に大きく貢献したことから「江夏の21球」という言葉が誕生しました。
江夏豊にとって野村克也は恩人だった?
江夏豊さんは1976年1月28日に阪神から南海ホークスへのトレードを通告されていました。
一方的に決められたトレードだった事で拒否して引退も考えたそうですが、南海ホークスの野村克也さん(選手兼任監督)と話し合って現役続行を決めたそうです。
私のヒーロー野球編。
野村克也さんです。私が南海ホークスのファンになった昭和48年、球界を代表する捕手でありながら、監督でもあり。プレイングマネジャーって、なんかかっこよかったですね😊#gps897 @gps897 pic.twitter.com/4rQQQLy9M5
— オレンジバーミリオンK🍊@柳瀬ゴローっちK (@Goro2Yanase) 2019年7月10日
江夏豊さんは血行障害や心臓病で長いイニングを投げられずにいましたが、野村克也さんは短いイニングであればまだ通用すると考えてリリーフ転向を勧めました。
それに対して先発のプライドがあった江夏豊さんは猛反発しますが、野村克也さんの「野球界に革命を起こそう」という説得を受け入れて1977年6月よりリリーフになりました。
当時のリリーフは格下に見られていたので、この「革命」というフレーズはピッタリでした。
リリーフになってからは変化球・制球力重視の投球になりましたが、本格的に転向して以降は170セーブ(通算では193セーブ)を記録する名ストッパーに成長しました!
先発として終わりかけていた自分に”第二の野球人生”を示してくれた野村克也さんに対して深く恩を感じ、1977年オフの野村克也さんの解任について行く形で退団しました。
江夏豊が今の広島カープを絶賛していた!
江夏豊さんは1977年オフに南海ホークスから広島カープへ金銭トレードされていますが、これは成績不振などでは無く野村克也監督の解任に反発してのトレード志願でした。
広島カープは2016年から2018年までセ・リーグ三連覇をしていますが、江夏豊さんも広島カープ時代に1979・80年と連覇を経験している事からコメントを求められていました。
辛口の江夏豊さんがカープ時代を「嫌な思い出はひとつもない」と振り返り、今も昔もカープは練習に臨む姿勢が他のチームとは全然違うと大絶賛していました!
また、松田オーナー(家)を中心とした家族的な雰囲気もカープならではと高く評価しています。
自身が在籍していた時と比べてどうかと聞かれると「今の方がずっと魅力がある」と指摘し、その理由として”生え抜きの選手”が頑張っている点を挙げていました。
現在は金銭による評価で気軽に移籍する選手が多い中、球団を渡り歩いた江夏豊さんにとって広島カープの人間関係を重視した方針は一層まぶしく見えたのかもしれませんね。
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