桜井センリは孤独死だった?息子はいない。ピアノで活躍したクレイジーキャッツ&経歴まとめ

昭和のテレビ黄金時代にお笑いで一世を風靡したハナ肇とクレイジーキャッツ。

この偉大なコミックバンドのピアニストだったのが桜井センリ(さくらいせんり)さんです。

孤独死報道は衝撃的でしたが、詳しい状況を追ってみたいと思います。

また、息子がいるという噂や担当楽器のピアノ、クレイジーキャッツ加入のエピソード、経歴についてもまとめます。

桜井センリのプロフィール

本名: 桜井ヘンリー

生年月日: 1926年3月20日

没年月日: 2012年11月10日(86歳没)

出身地: イギリス・ロンドン

最終学歴: 早稲田大学 第一政治経済学部(中退)

所属事務所: ワタナベエンターテインメント

桜井センリが孤独死

2012年11月11日、桜井センリさんは新宿区の私邸で遺体で発見され、孤独死と報じられました。

妻との離婚後は母と二人暮らしでしたが、母の他界後は一人暮らしだったようです。

郵便受けに新聞がたまり、窓が開いたままになっているのを不審に思った近所の人が通報して死亡が確認されたとのこと。


86歳でした。

事件性はなく、病気などによる直接的な死因は不明のようですが、過去に狭心症を発症したことがある桜井センリさん。

2010年11月の谷啓さんのお別れの会が公の場にみせた最後の姿になりました。

自宅からは、大好きなジャズがよく聞こえていたといいます。

1人でも苦しさより安心感を得ていた

孤独死という報道を聞いた人は、「さびしかっただろう」「つらかっただろう」と感じる人も多かったことでしょう。

確かに、「誰かとつながっている状態こそ幸せ」と感じる人なら、1人きりで亡くなる状況を悲しく思うはず。

そうした自分の気持ちから、桜井さんも同じようにつらかったと想像するのはわかります。

ですが、実際には少し違うかもしれません。

桜井さんは人付き合いが苦手であり、自宅でくつろぐ1人の時間を大切にしていたのだとか。

<家に帰るとホッとします。だから、たばこも外ですうだけ。家では一本もすわない。おちついていられるからすう必要がない>

誰かと外食をする際はとても緊張してしまい、普段の半分しか食べられなかったそうです。

人といることでそれほどストレスを感じてしまうなら、本当に1人で過ごしたかったのでしょう。

つまり、家の中に自分だけというのは、桜井さんにとって最も心安らぐ環境だったわけです。


話す人がいないと多少はさびしく感じたかもしれませんが、それは強いストレスを我慢してまで解消したい問題だったのでしょうか。

桜井さんの気持ちを正確に知ることは不可能ですが、さびしいだけの晩年ではなかった可能性もありそうですね。

本当に「孤独死」は適切なのか?

桜井さんの訃報で使われた「孤独死」というワードには、反対意見を述べる人もいました。

編集者の舘野晴彦さんも、「失礼なのでは?」という疑問を語っていましたね。

人生の晩年をどう過ごすかは、ご自分で選んだことかもしれない。世の中のヘンなしがらみに囚われたくなくて、1人で生きていたのかもしれない。

こうした意見は、SNSでも複数見られます。

桜井さんが亡くなった状況を勝手に「かわいそう」と決めつける風潮に、違和感を抱く人も多いようです。

確かに「孤独死」というワードには、本人が望まないさびしい最期を迎えたようなイメージがあります。

ですが、桜井さんのように人付き合いが苦手なタイプもいるわけですから、そのイメージが当てはまらないこともありますよね。

人によっては「そうはいっても本心ではさびしかったはず」と考えるかもしれませんが、人間はそれぞれ感じ方が違うもの。


本当のところは桜井さん本人にしかわかりません。

1人で亡くなったらすぐ孤独死と判断するのは、少々乱暴なのかもしれませんね。

桜井センリの息子は?

人づきあいが苦手で、プライバシーもあまりオープンにしなかった桜井センリさん。

よく息子について検索されているようですが、生前に交流のあった人たちの話を総合するかぎり子供はいなかったと思われます。

1967年に結婚して実母と三人の生活をはじめましたが、妻とはのちに離婚。

子供はおらず、以降は生涯独身で母と暮らしていたようです。

母は1984年に83歳で他界。

埋葬時に今の墓所を建立しています。

ちなみに、桜井センリさん主演の60年代のコメディドラマ『あひるヶ丘77』で息子役を演じた子役・下沢広之さんは、のちの真田広之さんです。

ピアノの腕はピカイチ&クレイジーキャッツ加入

クラシックピアノは小学4年生から習っていました。

ジャズピアニストとしてのキャリアをスタートさせたのは大学時代。

早い時期からピアノの実力を発揮して数々のバンドで活躍したそうです。

普通のバンドマンの月収が4万円だった当時、4倍以上のギャラを受け取っていたといいますから別格扱いのミュージシャンですね。


ピアノの演奏力は日本一との声もあったようです。

石橋エータローさんの後任選びに悩むハナ肇さんが桜井センリさんに目星をつけたところ、植木等さんと谷啓さんは脈があるわけないと一蹴。

ところがいざ本人に話してみると、クレイジーキャッツのような活動をしてみたかったと快諾。

石橋エータローさんの復帰後も残留することになり、二人のピアニストによる連弾コントは名物になりました。

桜井センリの経歴まとめ

桜井センリさんは父の赴任地ロンドンで1926年3月20日に誕生。

3歳までをイギリスで過ごしました。

本名については諸説あり、出生時に「桜井ヘンリー」と名付けられて帰国後に「千里」に改名したとも、最初から「桜井千里」だったともいわれています。

事務所はワタナベエンターテインメントに所属していました。

学歴は西巣鴨第三尋常小学校、暁星中学校卒業、早稲田大学第一政治経済学部中退。

大学在学中からサンバレー・スイング・バンドに加入してジャズピアニストとしての活動をスタート。

フランキー堺とシティ・スリッカーズにも在籍していました。

同グループのメンバーには植木等さんや谷啓さんもおり、三人はこの頃に出会っています。

クレイジーキャッツで大人気

その後の桜井さんは、いくつかのバンドを経て、1960年にクレイジーキャッツ(クレージーキャッツ)に加入。


病気療養に入った石橋エータローさんのピンチヒッターでした。

以降、『シャボン玉ホリデー』やクレイジーキャッツ主演の映画シリーズなどで活躍し、バンドの国民的人気に一役買うことに。

小柄な体を生かした女性役のコントが人気を集め、殺虫剤「キンチョール」のCMで扮した「センリ婆さん」は有名なキャラクターになりました。

このCMの「ルーチョンキ」というセリフは当時の流行語にもなったほどです。 

ピアニストとしてのこだわりとマルチな活動

穏やかで控えめな性格だった桜井センリさんですが、リーダーのハナ肇さんにピアニストとしてのプライドをみせたことがあります。

それはハナさんが電子オルガンを導入した時のことでした。

桜井さんは、電子オルガンはもはや音楽ではなく音響にすぎないと演奏を拒否。

演奏力の高さでメンバーからも一目おかれ、クレイジーキャッツの音楽性を支えたのが桜井さんでした。

後年は俳優や作曲家としても活躍。

映画「男はつらいよ」シリーズ、『キネマの天地』』、テレビドラマ『太陽の子』、『前略おふくろ様』などの出演作があります。

ちなみに、桜井センリさんには年齢にまつわる秘密があったことが死後に明らかになりました。

本当の生年は1926年ですが、公称では1930年生まれとされていたのです。

リーダーのハナ肇さんや植木等さんより年上では都合が悪いという理由でした。

このことは当時の関係者の間では公然の秘密だったようです。


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