寺尾聰の父は俳優。愛用サングラス&石原プロ所属の秘話。西部警察で妻との出会い。倉本聰が激怒?

俳優、歌手として輝かしい経歴を築いてきた寺尾聰(てらおあきら)さん。

あまり知られていませんが実は二世タレントだったんです。

寺尾聰は二世タレントで父は俳優

ミリオンセラーを記録した「ルビーの指環」があまりにも有名な寺尾聰さん。

また、俳優としても活躍し日本アカデミー賞など数多くの賞を受賞しています。

これまでの功績を称えられ2008年に紫綬褒章、2018年には旭日小綬章を受章。


日本芸能史にその名が永遠に残る事は間違いないでしょう。

ミュージシャン、俳優と二足の草鞋を履き、いずれでも高い評価を得ている寺尾聰さん。

芸能界デビューした当初はグループ・サウンズ「ザ・サベージ」のメンバーでした。

ザ・サベージはリリースした楽曲が立て続けにヒット。

瞬く間に大人気バンドとなるも寺尾聰さんは早々に脱退。

続いて「ザ・ホワイト・キックス」というバンドに参加するもシングルを1枚リリースしただけで解散。

当時はアイドル的な扱いをされる事が多かったグループ・サウンズ。

きっと寺尾聰さんはそのような扱いをされる事に嫌気がさしたのかも

その後、音楽と距離を置き、俳優業を行うようになったのがその証拠と言えるでしょう。

1968年の映画「黒部の太陽」で俳優デビューした寺尾聰さん。

すると俳優としての才能が開花し、数多くの映画やドラマに立て続けに出演。

その演技力が映画監督の黒澤明さんの目に留まった事で黒澤作品の常連に。

2001年には黒澤明さんの遺稿を映画にした「雨あがる」で主演を務め日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞。

なお、同賞と日本レコード大賞を共に受賞したのは寺尾聰さんだけ。

それだけ寺尾聰さんが稀有な存在であるという事ですよね。

このように記録にも記憶にも残る活躍を続ける寺尾聰さん。

実は寺尾聰さんの父親も長年に渡って芸能界で活躍した俳優だったんです。

寺尾聰さんの父親は宇野重吉さん。

戦前から長きに渡って活動を続けた名優として知られています。

数多くの映画やテレビドラマに出演した宇野重吉さんですが、特筆すべきが演劇界への貢献。

1950年に「芝居でメシの食える劇団」として劇団民藝を創設。

宇野重吉さんの手腕もあり、民藝は俳優座や文学座と肩を並べるほどの劇団に。

1985年には芝居を見に来られない地方で暮らす人々のために宇野重吉一座を立ち上げて精力的に地方公演を行いました。

俳優だけでなく演出家や映画監督としても活躍した宇野重吉さん。

きっと寺尾聰さんが多彩な活動を行うのは宇野重吉さんの存在が無関係ではないはず。

同じ世界で活動するからには宇野重吉さんに負けたくない、という思いが寺尾聰さんの原動力になっているのでしょうね。

寺尾聰と言えばサングラス

寺尾聰さんのトレードマークと言えばサングラス。

2005年には日本メガネベストドレッサー賞のサングラス部門を受賞。

この受賞により名実ともに「サングラス=寺尾聰」が証明されたと言えるでしょう。

寺尾聰さん愛用のサングラスで最も有名なのがレイバンのWINNER。

サングラスの定番ブランドの1つであるレイバン。

現在も国内外、多くの著名人が愛用しています。

寺尾聰さんが愛用するWINNERは日本での販売期間は1年ほど。

しかも当時は他に売れ筋の定番商品があったため流通量も非常に少ないんだとか。

現在はインターネットで欲しい物を簡単に探して買えます。

ですが、当時は欲しい物は自分の足で探す時代。

きっと多くの若者が寺尾聰さんと同じサングラスを求めてあちこちの眼鏡屋に足を運んだ事でしょう。

まさにプレミア物のサングラスであるレイバンのWINNER。

そのため今でも多くの偽物が出回っているそうです。

そんな貴重なサングラスを愛用していた寺尾聰さん。

サングラスの情報には人一倍敏感だったために手に入れる事が出来たのでしょうね。

寺尾聰の石原プロ所属に隠された秘話

現在は個人事務所の寺尾音楽事務所に所属する寺尾聰さん。

デビュー当初はホリプロの所属でしたが、石原裕次郎さんが制作と主演を務めた映画「黒部の太陽」に出演した事で石原プロへ。


当時はまだ歴史が浅かった石原プロモーション。

そのため同映画製作にかけられる費用は僅かな金額しかありませんでした。

その時に石原裕次郎さんが頼りにしたのが寺尾聰さんの父である宇野重吉さん。

この依頼を快諾した宇野重吉さんは俳優やスタッフ、機器等、劇団民藝が全面的に協力する事を約束。

そのおかげで無事に制作された「黒部の太陽」。

当時、史上最高となる733万人を超える観客動員数と興行収入16億円を記録。

日本映画史に残る傑作として今も語り継がれる名作の1つとして知られています。

もし宇野重吉さんの協力が無ければ同映画は制作されなかったかもしれません。

石原裕次郎さんは宇野重吉さんに恩義を感じて慕うようになったそうです。

その後、寺尾聰さんが石原プロに所属するようになったのは恐らくこの恩義に報いるため。

石原裕次郎さんは寺尾聰さんを一人前に育てる事で宇野重吉さんへの恩に報いたいと思っていたのでしょう。

後に寺尾聰さんが「ルビーの指環」をリリースする際にも石原プロの専務が「売れない」と判断するも石原裕次郎さんはGOサイン。

その裏には「寺尾聰さんの味方でありたい」という思いがあったのかもしれませんね。

寺尾聰が結婚するきっかけは西部警察?

石原プロの所属となり「大都会」や「西部警察」など石原プロ制作の話題作に出演した寺尾聰さん。

石原プロならではの激しいアクションシーンにも果敢に挑戦。

俳優としてのキャリアを確立する事に繋がる作品となった事は間違いないでしょう。

ただ、寺尾聰さんがこれらの作品で得たのは俳優としてのキャリアと評価だけではありません。

「西部警察」での共演がきっかけで星野真弓さんという伴侶も得ているんです。

星野真弓さんは「西部警察」の第64、65話にゲスト出演。

2話という短い期間での共演ながら交際に発展している事から一目惚れだったのかもしれませんね。


その後、目立った活動をしていない星野真弓さん。

寺尾聰さんとの間に3人の子供もいるため家庭に専念するために芸能界を引退したのでしょう。

なお、現在(2023)の星野真弓さんは寺尾音楽事務所の社長を務めているんだとか。

公私に渡るパートナーとして寺尾聰さんを支えているんですね。

倉本聰が二度と寺尾聰を起用しない理由

「前略おふくろ様」や「北の国から」、「やすらぎの郷」などの脚本で知られる倉本聰さん。

時代や世代を問わず、見る者の心に訴えかける傑作を数多く生みだし続けています。

ヒューマンドラマを書かせたら右に出る物はいないと言っても決して過言ではないでしょう。

その一方、倉本聰さんと言えばこだわりの強さも有名。

過去には演出家と衝突し、途中でNHK大河ドラマの脚本を降板した事も。

日本ドラマの代表的な存在であり、多くの人が制作に携わりたいと願うNHK大河ドラマ。

その脚本を途中で降板するなんて倉本聰さんのこだわりの強さが良く分かりますよね。

また、倉本聰さんは脚本へのこだわりから撮影前に行われる「本読み」にも積極的に参加。

そして意図やニュアンスが正しく伝わっていない場合は俳優に指導するそうです。

まさに一字一句にまでこだわり抜いて脚本を手掛ける倉本聰さん。

それは映画やドラマに関わる人達には周知の事実となっていたはず。

その不文律を破ってしまったのが寺尾聰さん。

倉本聰さん脚本のドラマ「優しい時間」で主演を務めた際に「よう」という台詞を「やあ」に変更してしまったんです。

その事実を知った倉本聰さんは激怒し、それ以降は自らの作品に寺尾聰さんを起用していません。


寺尾聰さんにしてみれば「やあ」の方が自然だったのかもしれません。

ですが、今となっては後の祭り。

倉本聰さんが再び「起用したい」と思うような演技を見せ続けるしかありません。

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