『伊豆の踊子』『雪国』をはじめとする珠玉の名作を遺し、日本人として初のノーベル文学賞を受賞した川端康成(かわばたやすなり)。
複雑な生い立ちや謎の死は広く知られるところですが、多くの人が証言する奇妙な癖もあったようです。
近現代日本文学の最高峰に位置づけられる文豪はどんな人であったのか、その性格をひも解いていきたいと思います。
あわせて加賀まりことのエピソード、ノーベル賞をめぐる三島由紀夫との関係、60年ぶりに復刊された『親友』、定宿の伊豆旅館についても取り上げます。
川端康成のプロフィール
本名:川端康成
生年月日:1899年6月14日
死没:1972年4月16日
身長:不明(160cm未満とされる)
出身地:大阪府三島郡豊川村(現在の茨木市宿久庄1丁目11-25)
最終学歴:東京帝国大学国文学科
ゆかりの人々が語る川端康成の性格
大正から昭和にかけて活躍し、日本の美を抒情的に描いた名作を世に残した川端康成。
昭和43年、ストックホルムで行われたノーベル賞授賞式には燕尾服ではなく和装で出席し、スウェーデン国王からメダルを授与されました。
世界が日本文学を認めた瞬間です。
これに先立つ昭和32年1月、陰の立役者である「サイデンさん」ことエドワード・ジョージ・サイデンステッカーの英訳による『雪国』がアメリカで発売。
翻訳が難しい川端文学を巧みに英語に写しとった名訳です。
「サイデンさん」はまた、授賞式に一緒に行ってほしいとの川端の申し出を快諾し、現地にも同行。
インタビューでは、「翻訳者のおかげ」「三島君が若すぎたおかげ」などと謙遜の言葉を述べた川端康成。
ノーベル賞の選考過程は50年を経て初めて情報開示されますが、同年の候補者に三島由紀夫も挙がっていたことが2019年に公開された選考資料から明らかになっています。
ノーベル賞をめぐる二人の関係については後述します。
川端康成がどんな性格であったのか、その一端が垣間見えるエピソードがいくつかあります。
ひとつは人の顔を凝視する癖があったこと。
それも相手が困惑するくらいに、じっと長く見つめる癖があったそうです。
あの鋭い眼差しで黙って凝視するのですから、相手は恐怖さえ感じたことでしょう。
秀子夫人によると、川端の性格をよく表しているのがあの鋭い眼とのこと。
じろじろ見つめられた女性編集者が耐えかねて泣き出しても、当の本人は不思議そうに「どうしたのですか」。
これは作家ならではの観察眼で、物ごとの本質を見極めようとする癖なのかもしれませんね。
もうひとつの癖は、何かに夢中になると常識を忘れてしまうこと。
美術品が好きで、欲しいものがあると借金をしてでも購入し、返済の催促にも開き直る豪胆さがありました。
さらに、小説の執筆のため旅館に無銭で何年も逗留したという武勇伝も。
複数の出版社に借金があったのは有名な話です。
一方で、「文壇の総理大臣」と呼ばれるほどに人との和を大切にする、面倒見のよい人物でもありました。
その行為は偽善的ではなく、行き過ぎたおせっかいでもなく、達人といえる域に達していたそうです。
とはいえ、こうした伝聞だけで第三者が人となりを決めつけるのはいささか乱暴な気がします。
本当の性格は、おそらく家族や親しい人々にしかわからないものなのでしょう。
死因は自死とされていますが、遺書がなかったことから不明な部分もあり、一般的には謎の多い人物といえそうです。
加賀まりこが川端康成を袖にした?
川端康成の長編小説『美しさと哀しみと』は篠田正浩監督によって映画化され、のちにフランスでも映画化されました。
この映画で同性愛者を演じた加賀まりこを川端は絶賛しています。
やがて彼女の舞台に足を運んだり、朝食を一緒に食べたりする親密な関係になりますが、加賀まりこは男女関係をきっぱりと否定。
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彼はきっと、自分を大物扱いしない人間とつきあうのが楽しかったのだろうと述べています。
また、当時はすでにおじいちゃんであったため、恋人の対象ではなかったとも。
昭和の文豪・川端康成を袖にしたとも受けとれる発言ですが、さすがは元祖小悪魔女優ですね。
『美しさと哀しみと』の加賀まりこが素晴らしすぎる…当時、川端康成がメロメロだったというのも極々うなづける。 pic.twitter.com/k2FygpRZL0
— 中村A (@NakamuraAbc) July 5, 2017
ノーベル文学賞をめぐる三島由紀夫との関係
三島由紀夫を発掘し、その才能を高く評価していた川端康成。
皮肉にも、三島の葬儀委員長も務めることになりました。
ノーベル賞受賞の4年前、日本人のノーベル文学賞第一号は誰かと問われた際に、「それは三島君です」と即答しています。
二人は師弟関係にあると同時に、年齢差を超えて敬愛し合う間柄でした。
『川端康成・三島由紀夫往復書簡』には、20歳の三島由紀夫と46歳の川端康成が交わした書状を皮切りに、以降25年にわたって続けられた90通あまりの書簡のやりとりが収録されています。
二人の関係性を知るうえでの貴重な資料ですね。
ところが後年の彼らには、じつは複雑な感情があったのではないかと指摘する専門家も。
その原因のひとつとみられているのがノーベル賞です。
なかでも評価が難しい文学賞は、選考機関がそれぞれの国に推薦を依頼するといわれています。
日本国内で選ばれたのが川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎、三島由紀夫の4名であり、とりわけ有力視されたのが川端と三島でした。
このことを知った川端は、君はまだ若いから、今回は譲ってくれないかと三島に持ちかけたといいます。
これは三島の母親が親しい知人に明かした話とのことです。
大恩人であり、媒酌人であり、敬愛する川端の申し出を三島がどう受けとめたかは知る由もありませんが、この一件に憤慨したのは三島本人というよりも家族であったようです。
そして川端は昭和43年にノーベル賞を受賞。
お祝いに駆けつけた三島は、2年後の昭和45年、市ヶ谷駐屯地にて割腹自殺をとげました。
一方、多忙を極めていた川端の筆も止まり、三島の死の2年後に自ら命を絶っています。
幻の少女小説『親友』が復刊
川端康成は純文学の文豪として有名ですが、児童文学や少女小説の名手でもありました。
昭和29年から『女学生の友』に連載された少女小説『親友』は一度は単行本化されたものの、これまで復刊されることのなかった幻の作品。
平成29年には、およそ60年の時を経て復刊に至っています。
『伊豆の踊子』『雪国』といった著名な作品に登場する女性像とは趣の異なる、思春期の少女たちのみずみずしい感性や心情が描かれた秀作です。
子供たちに向ける川端の眼差しや、川端文学の幅広さに触れることができる貴重な1冊といえるでしょう。
川端康成が愛した伊豆旅館
大正7年、19歳の川端康成は初めて伊豆を訪れ、旅芸人の一座と親交を深めます。
22歳の夏に伊豆湯ヶ島温泉の湯本館で執筆した草稿に、湯ヶ島は第二の故郷と思われると記されているように、湯ヶ島には郷愁を感じていたようです。
『伊豆の踊子』は、この草稿から踊り子の部分だけをのちに書き直したもの。
川端康成がこよなく愛し、名作『伊豆の踊子』を執筆した宿が湯本館なのですね。
昭和47年(1972年)の今日、小説家でノーベル文学賞を受賞した川端康成がガス自殺をはかり亡くなった日
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— お出かけいく (@odekakeiku) April 16, 2020
伊豆の天城湯ケ島温泉にある湯本館は創業が明治38年。
天城の清流・狩野川の大自然に恵まれた、文学の香りが漂う旅館です。
川端文学ファンにとってはまさに聖地ですね。
昭和47年4月16日、ガス自殺により72歳の生涯をとじた川端康成。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という『雪国』の冒頭は、文学好きでない人も知っているほどに有名です。
日本文学史に燦然とかがやく作品群は、時代を超えて多くの読者に読み継がれていくことでしょう。
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