『雪国』や『山の音』などの美しい文体で知られる文豪・川端康成(かわばた やすなり)。
しかし、その家族についてはあまり知られていないかもしれません。
今回は川端康成について、子孫はいるのか、養女の情報、恋人と結婚相手はどんな人物だったかをご紹介します。
川端家の知られざる家系図の情報を見ていきましょう。
川端康成のプロフィール
本名:川端康成
生年月日:1899年6月14日
死没:1972年4月16日
身長:不明
出身地:大阪府
最終学歴:東京帝国大学国文学科(現在の東京大学)
川端康成の子孫はいる? 養女について
まず川端に子孫がいるのかどうか、見ていきましょう。
2023年現在、川端康成記念会の理事長を務めているのは、川端香男里(かわばた かおり)さんという男性です。
1933年の生まれで、ロシア文学者として著作が多数あり、NHKラジオでロシア語講座を担当したこともある研究者でした。
川端香男里『ロシア文学史』
ロシア文学の全てを概観する
…😰💦→ロマン主義以降で俄然目が覚める✨
プーシキン 、レールモントフ、ゴーゴリ…
『悪魔』等、賞賛の嵐…✨青春期にロマン主義の洗礼を受けた〝黄金時代〟の作家達→やはりロシア文学史上光り輝いている
他にも訳注で知った歴々が… pic.twitter.com/9ITgpvwGtW
— まるいものが好き (@marumaru23akiko) January 24, 2020
しかし川端康成の息子というわけではなく、川端の養女・政子さんの夫であるとのことでした。
政子さんを養女として迎えたことからも、川端に実の子供はいなかったことがわかります。
川端の主治医だった精神科医・栗原雅直さんの紹介でお見合い結婚をした結果、夫の方が妻の川端姓を名乗ることになりました。
さらに、香男里さんの父である山本政喜さんと川端が、東京帝国大学の同級生で話が弾んだのも大きかったようです。
さらに西洋美術家だった故・若桑みどりさんは、香男里さんの妹ということで、やはり川端関連の血筋はインテリの家系であることが改めてわかりました。
後期イタリア・ルネサンスの美術様式である「マニエリスム」の評論書を並べました。
若桑みどりの著書・訳書や、種村季弘の訳書など。マニエリスム美術について関心のある方や、幻想絵画、文学が好きな方にとっても心惹かれるラインナップではないでしょうか。 pic.twitter.com/7InttBmTKJ— 幻想系古本屋 Doris (古書ドリス) (@info_doris) November 17, 2020
川端康成の恋人は?
次に川端の恋人だった女性について詳しく見ていきましょう。
川端の恋人で元・婚約者だったのは、伊藤初代という女性でした。
2人は相思相愛だったにもかかわらず、初代側からの婚約破棄で関係は突然の終わりを告げます。
馴れ初めは学生だった川端が、仲間に連れられて訪れた「カフェーエラン」という店の女給だった初代に恋をしたことでした。
エランのマダムが結婚するに伴い、店は閉店、初代はマダムの姉がいる岐阜の西方寺という寺に預けられます。
川端は岐阜の初代に求婚、22歳のとき婚約がかない、幸福の絶頂に立ちました。
ぎょろ目で無口な川端を不気味に思っていた初代も、次第に彼を慕うようになり、相思相愛だったようです。
岐阜から東京へ戻った川端は初代と文通を続けますが、西方寺の住職夫妻は2人の結婚に反対し、初代に川端と縁を切るよう迫りました。
苦しんだ結果初代は、川端に婚約破棄を申し出るのです。
初代からの手紙には、非常事態によるやむを得ない事情を表す「非常」という言葉が書かれており、のちに川端は『非常』というタイトルでこのときのことを作品にしています。
鎌倉文学館 臨時休館中
文豪の愛の言葉おみくじ
【恋しくって恋しくって、早く会はないと
僕は何も手につかない】川端康成から想い人伊藤初代への手紙より ※投函せず
当時川端は22歳。2人は婚約しますが、のちに破断。川端に大きな影響を与え『非常』などの題材となりました。#愛は言葉だ pic.twitter.com/HoqovlTGim
— 鎌倉文子@鎌倉文学館 (@kamakura_bunko1) February 29, 2020
この悲恋は川端の作風に大きな影響を与えました。
『篝火』などの「ちよもの」と呼ばれる作品群は、初代の通称だった「ちよ」にちなんだネーミングで、この悲恋をほぼ現実の通りにつづっています。
2014年には、川端から初代へ宛てた未投函の手紙が発見されました。
幼くして身内に死に別れた川端にとって、ようやくつかんだ幸せを一瞬で手放すことになったこの経験は、生涯最大の不幸な事件だったのでしょう。
川端の結婚相手は誰?
そんな川端が実際に結婚したのは、どんな女性だったのでしょうか。
生涯寄り添った妻は、青森県出身の秀子という女性で、設立間もない文藝春秋社の編集者・菅忠雄の家で働いていました。
この家のいわば居候だったのが、川端だったのです。
こうして1925年に出会った2人は、6年後に入籍。
秀子夫人は生涯、あくまでも作家の妻として、夫の生活を支えることに邁進しました。
夫の死後、その回想録『川端康成とともに』を発表。
2002年に95歳で亡くなるまで、対談などの活動を通して、夫やその周辺の事情を語り続けていました。
養女・政子さんと交流のあった作家で、川端の弟子だった三島由紀夫が、それとなく政子さんに結婚を申し出ようとしたことがあるようです。
それについて秀子さんは、夫に相談することもせず、きっぱり断ったと語っています。
林房雄さんの最初の奥様の亡くなった時(昭和25年)のことですが、御通夜の席で三島さんから私に、それとなく娘との結婚話が出されましたので、私もさりげなく、しかし、きっぱりとお断りしたことがあります。主人に相談することなど考えもしませんでした。-1984年5月「続・川端康成の思い出」川端秀子
— 三島由紀夫と川端康成 (@msm_kwbt) November 7, 2020
作家である夫を支えるバイタリティーがある女性ですから、三島相手でも物おじしない、芯の強い夫人だったことがうかがえますね。
川端家の家系図まとめ
川端家の家系図には、やはりインテリが多く存在することがわかりました。
実は古くまでさかのぼると、鎌倉幕府の2代目執権だった北条泰時(北条雅子の弟)にまでたどり着く、由緒ある家柄なのです。
しかし川端は幼くして両親、祖父母、姉を相次いで亡くしており、名門の家柄であっても生命力は弱かったことがうかがえます。
何とか72歳まで生きた川端も、結局はガス自殺を遂げました。
自殺理由は推測するしかないにせよ、幼少期から背負っていた不幸な影に付きまとわれ、作家として大成してからも精神を病むことがあったのかもしれませんね。
今回は文豪・川端康成の周辺の人々についてご紹介しました。
日本文化を美しくつづる作家の人生に付きまとう不幸な運命に、晩年は抗う気力を失ってしまっていたのかもしれません。
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