完成度の高い小説や戯曲を数多く世に遺し、45歳の若さで自決の道を選んだ三島由紀夫(みしまゆきお)。
常人には推し量ることのできないその最期は、文学界はもとより世の中にも大きな衝撃を与えました。
この記事では三島が家族と暮らした東京・大田区の家をはじめ、母親と引き離されて過ごした特異な生い立ち、また偉人が名を連ねる豪華な家系図に迫ります。
三島由紀夫のプロフィール
本名:平岡公威
生年月日:1925年1月14日
死没:1970年11月25日
身長:163cm
出身地:東京都新宿区四谷
最終学歴:東京大学法学部法律学科
三島由紀夫が家族と暮らした白亜の家
昭和45年11月25日、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地にて、繁栄ぼけの日本に檄をとばし、その直後に割腹自決をとげた三島由紀夫。
没後50年にあたる令和2年は関連書籍が多く刊行され、各メディアでも三島特集が組まれましたが、やはりネット上の反響は大きいですね。
これもまた、その鮮烈な生きざまや作品群がいまだ圧倒的な熱量を放っていることの証左でしょう。
大正14年1月生まれの三島は、昭和の年数と年齢を同じくして生きました。
11歳の時に二・二六事件、20歳で終戦という具合に、人生の節目が昭和の歴史的な出来事と重なることから、「昭和の申し子」「昭和とともに生きた男」として語られることも多い人物です。
お見合い結婚した瑤子夫人は高名な画家・杉山寧の娘です。
三島は理想の結婚相手として、三島由紀夫ではなく平岡公威との結婚を望む女性を求めていました。
一方の瑤子夫人は、お見合いのあとに「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうに言葉を述べたといいます。
三島結婚のニュースはまたたく間に文壇に伝わり、「けっこうでしょう、年貢の納め時だ」と大岡昇平が祝福すれば、「三島さんがお見合い結婚なんて信じられない」と石原慎太郎。
余談ですが、お見合い相手の女性に独身時代の上皇后美智子さまがいたことも明らかになっています。
大田区南馬込の白亜の洋館に転居したのは結婚の翌年でした。
瑤子夫人、長女の紀子、長男の威一郎と暮らしたこの家は現存しており、今もご遺族が住んでいます。
およそ日本建築とかけ離れた、きらびやかな外観と重厚な造りに圧倒されますが、この家の詳細は篠山紀信さんの撮影による『三島由紀夫の家』『三島由紀夫の家 普及版』で見ることができます。
庭園に置かれた大理石のアポロ像、石造りのベンチ、暖炉、調度品など、そこかしこに三島の美意識が感じられ、華麗な私生活の一端を垣間見ることができる1冊です。
母親に甘えられなかった生い立ち
大正14年1月14日、現在の東京都新宿区四谷にて、平岡梓・倭文重(しずえ)夫妻の長男として誕生した三島由紀夫。
父は農商務省の官僚、母は漢学者の娘というエリート家庭でした。
広い家には父方の祖父母も同居しており、三島は幼少期を祖母・夏子の絶対的な影響下のもとに過ごすことになります。
祖母は三島が生まれてまもなく、子供を2階で育てるのは危険が多すぎるという理由で両親から奪い、自分の部屋で養育するようになりました。
母の倭文重に会わせるのは授乳の時と散歩の時だけ。
そのうえ男の子らしい外の遊びも禁じ、遊び相手に選ぶのは女の子ばかりでした。
やがて学習院初等科に入学した三島は病弱で顔色も悪く、「アオジロ」と呼ばれるように。
少年時代から自身の肉体に強烈なコンプレックスを抱いていたという三島由紀夫。
しかし一方で、能や歌舞伎を好む祖母の古典的趣味が、作家としての素養を培ったことも見逃せません。
両親と引き離された生活は、学習院中等科に入るまで続きました。
命日11月25日【NHK人x物x録 #三島由紀夫 1925~1970 小説家】人間は何かのために死ぬ それが大義というもの―20歳で迎えた終戦の風景について「世界が破壊するはずなのに木々が夏の日を浴びて輝いているのが不思議でならなかった」と振り返る…続きは https://t.co/bnViIsBzkO #NHK人物録 #今日は何の日
— NHKアーカイブス (@nhk_archives) November 24, 2020
念願の同居がかなった母・倭文重は、息子の文学の才能に驚き、その成長を見守ります。
官僚になることを望んでいた父が原稿を破り捨てた時も、新しい原稿用紙を買いそろえるなど献身的なサポートを続けました。
母の愛情を終生忘れず、晩年まで原稿を真っ先に母に読んでもらっていたという三島由紀夫。
息子の死を感じとっていた倭文重は、それが何よりの望みならば力を貸してあげたいくらいだった、と明かしています。
また『午後の曳航』を英訳したジョン・ネイスンによると、三島の死の翌々日、白い薔薇の花束を手に訪れた弔問客に倭文重はこう語りかけたといいます。
「お祝いには赤い薔薇がようございましたのに。
公威がしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。
喜んであげてくださいませな」
この言葉をどう解釈すればよいのでしょう。
最後まで息子の絶対的な味方であり、完全たる理解者であろうとした母親の思いが痛いほどに伝わってきます。
出産したばかりのわが子を奪われ、10年以上も引き離されて暮らしていた倭文重は、誰よりも三島を理解しようとする気持ちが強かったのかもしれません。
三島由紀夫は市ヶ谷決起、自決の1か月前に、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館を訪れて、昭和20年5月11日に沖縄方面で特攻死した古谷眞二中尉の遺書を読んで号泣している。
「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」
古谷中尉 享年22歳。#憂国忌 pic.twitter.com/N7z5UPYbwq
— 六衛府 (@yukin_done) November 25, 2020
三島由紀夫の家系図に歴史の偉人たち
平岡家は、祖父、父、三島由紀夫と、三代にわたって東京大学法学部出身の官僚の家柄です。
祖父・定太郎は福島県知事や樺太庁長官を歴任した人物。
祖母・夏子の母方の祖父は常陸宍戸藩藩主・松平頼位。
松平頼位の血脈をさかのぼると徳川家康につながります。
また夏子の父方の祖父は幕末の人傑・永井尚志。
大河ドラマ『新選組!』をごらんになった方は覚えていると思いますが、佐藤B作さんが演じた人物です。
大政奉還の際、徳川慶喜の奏上文を草案した人としても知られています。
三島の父方の高祖父にあたりますね。
さらに尚志の先祖をたどると藤原鎌足(中臣鎌足)にたどりつきます。
また、夏子の実家の永井家と永井荷風の永井家は同じ一族で、血縁関係にあります。
三島は、荷風と面ざしが似ている父・梓のことを陰で「荷風先生」と呼んでいたそうです。
三島割腹の一報を受けて現場に駆けつけた師の川端康成は、「もったいない死に方をしたものです」と色を失いました。
激動の昭和を駆け抜けた天才作家の、あまりに短い生涯でした。
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