黒澤明伝説!勝新太郎、三船敏郎とは不仲?宮崎駿、北野武との関係

『羅生門』や『七人の侍』など、映画史に残る傑作を世に送り出した監督の黒澤明(くろさわ あきら)。

今回は語り継がれる黒澤伝説をご紹介します。

また勝新太郎、三船敏郎との不仲説、さらに宮崎駿さん、北野武さんとの関係にも迫ります。

黒澤明のプロフィール

本名:黒澤明

生年月日:1910年3月23日

死没:1998年9月6日

身長:182cm

出身地:東京都

最終学歴:京華中学校(現在の京華中学高等学校)

黒澤明の伝説

まず黒澤の伝説をご紹介します。

天才と呼ばれた監督だけあって、撮影エピソードの多くは伝説化しているようです。


リアルにこだわる完璧主義者だった黒澤。

台本上の設定が雨なら、実際に雨が降るまでひたすら待っていたのは有名な話です。

スタッフや役者がせっかくスタンバイしても、希望通り雨が降らなければ、その日の撮影は何もせず終了。

こだわりが強いとはいえ、周囲にとっては迷惑だったでしょう。

さらに群衆シーンを撮る前日、急に「群衆900人を集めろ」と言ったそうです。

元々500人のつもりだったため、スタッフは慌てて親戚や友人にも連絡し、何とか700人まで集めました。

しかし黒澤は「あと200人足りない」と言って撮影を中止し帰宅したそうです。

常識外れの言動や行動は、まさに巨匠らしいですね。

スタッフの苦労は並大抵のものではなかったでしょう。

勝新太郎との衝突で映画降板

次に黒澤が、勝新太郎と不仲だったという情報に迫ります。

勝は80年公開の『影武者』で、主役の武田信玄を演じる予定でした。

しかし結局、黒澤との衝突を経て降板したため、不仲説が浮上したのです。

勝は当初、料亭で監督をもてなすなど、非常にやる気がありました。

しかしこだわりの強い者同士、衝突の予兆はあったそうです。

リハーサル時、独特な台詞回しで台本を読む勝に、黒澤は何度もやり直しを要求。

さらに勝は自分の演技をチェックするため、ビデオで撮影したいと申し出ますが、監督は「余計なことをするな」と拒絶。

勝が激怒しワゴン車に閉じこもったことで、対立は決定的となりました。

妥協を許さず、役者には厳しいことで知られた黒澤。

勝と交流のあった仲代達矢さんは、「監督の言う通りにした方がいい」と彼にアドバイスしていたそうです。

しかし自分の役作りに協力しない監督に、怒りを抑えられなかったのでしょう。

監督、主演俳優共に妥協しなかった結果、主演交代という未曽有の事態に陥るのです。

こうして勝の降板後、代役を仲代さんが務めることになりました。

しかし勝は降板を少しは後悔していたようです。


『影武者』について「俺がやっていれば面白い映画になったのに」と語っています。

天才同士ぶつかり合い、不仲ではあったものの、心の奥底では監督を尊敬していたのでしょう。

三船敏郎との不仲説

次に黒澤と三船敏郎の不仲説です。

三船はクロサワ映画には欠かせない名優で、15本もの映画で監督とタッグを組んでいます。

しかし65年の『赤ひげ』を最後にクロサワ映画へ出演しておらず、以降は2人の不仲説が生じました。

強い信頼関係で結ばれていたはずですが、なぜ晩年は不仲とされるのでしょうか。

『赤ひげ』での演技に監督が不満を抱いたためなど、不仲説には様々な憶測があります。

筆者が、最も信憑性が高いと判断したのは、黒澤組の脚本家だった故・橋本忍さんの意見です。

橋本さんは、2人の間に突如亀裂が生じたのではなく、段階的に距離が遠くなったと主張。

57年公開『蜘蛛巣城』のクライマックで、三船をめがけておびただしい数の矢が飛んでくるシーンがあります。

成城大学弓道部の学生が、何と本物の矢を放ったそうです。

いくらリアルにこだわるとはいえ危険すぎるやり方ですね

三船は本物の矢を必死でよけながら撮影に臨みました。

しかし後日、酔っぱらった状態で監督の宿泊先に赴き、「黒澤の馬鹿野郎!」と叫び続けたそうです。

黒澤はこの時、おびえて部屋にこもっていました。

『蜘蛛巣城』での一件以来、2人の溝は深まったようです。

さらに橋本さんは、ギャラの問題も指摘。

黒澤は長い場合、数年かけて1本の映画を撮ります。

1本を取り終えるまでの数年間、三船のようなスターでさえ、他の映画に出演できず拘束されていたそうです。

本来なら数本の映画に出演できる期間に、1本の映画しか出演できないので、支払われるギャラは1本分のみ。

期間にギャラが見合っていなかったのでしょう。

クロサワ映画によってスターとなった三船。

しかしいつまでも黒澤に付き合っていては、ふさわしい報酬を得られなかったに違いありません。

つまり三船がクロサワ映画から離れていったのは、不仲のため以上に、契約条件が合わなくなったためでしょう。

高倉健さんは生前、「三船が出演しなくなってからのクロサワ映画はあまり優れていない」と語っています。


三船にとっては、より自由に仕事をするため、クロサワ映画を卒業するタイミングが必要だったのでしょう。

ただ日本映画史にとっては、2人の離別は大きな損失だったのかもしれません。

宮崎駿、北野武との関係

最後に黒澤と、宮崎駿さん、北野武さんの関係に迫ります。

1993年、黒澤と宮崎さんの対談が行われました。

宮崎さんにとって黒澤は憧れの存在。

巨匠を前に終始恐縮している様子でした。

アニメ映画界の帝王が低姿勢を貫いている様子は、非常に珍しいですね。

しかし後日記者が、「黒澤監督は宮崎さんに、実写映画を作って欲しいそうです」と伝えたところ、憤慨した様子を見せます。

「本当に黒澤監督がそう仰ったのなら失礼だと思う」と、怒りをあらわにしました。

黒澤が、アニメより実写の地位が上だという意味で実写映画製作を要望したのなら、抗議するとも発言。

巨匠を目の前にしては言えなかった本音が、後日に噴出したのでしょう。

さらに黒澤は宮崎さんのジブリ作品を褒めつつも、いちばん好きなのは『火垂るの墓』だと伝えたそうです。

『火垂るの墓』は高畑勲監督の作品ですが、宮崎作品だと勘違いして発言してしまったのでしょう。

しかし宮崎さんとしては、かなりショックだったはず。

巨匠に対する不満が溜まっていたのかもしれません。

しかし弱者の視点から人間のエゴや争いの虚しさを描く点など、ジブリ作品は確実に黒澤作品の影響を受けています。

宮崎さんは生涯、黒澤を尊敬していることに変わりないでしょう。

次に黒澤と北野武さんとの関係ですが、2人も対談などで交流を深めていました。

黒澤は北野作品を非常に気に入っており、『ソナチネ』を絶賛。

武さんは監督になりたての頃、撮影方法の基本がわからず、斬新な撮り方をしていたそうです。

カメラで時間経過を丁寧に追わず、テンポよく次々と場面を切り替えるのが特徴でした。

正当なやり方ではありませんが、黒澤は面白いと考えたようです。

武さんに厚い信頼を寄せ、「あとは頼んだよ」と言い残したとも伝えられています。


ただ武さんは役者に怒鳴らない方針を貫いていますから、役者に厳しい黒澤とはやり方が真逆ですね。

それでも巨匠から認められたことは、大きな自信につながったのかもしれません。

良くも悪くも偉大な監督として、後世に多大な影響を残した人物といえるでしょう。

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