黒沢年雄、若い頃の苦労。帽子の名前はイスラムワッチ。かつらで髪ありの姿&黒澤明との関係

今ではおもしろいおじさんというイメージが強く、バラエティー番組でもお馴染みの黒沢年雄(くろさわとしお)さん。

当時をしらない世代にとっては意外かもしれませんが、若い頃は二枚目俳優として活躍していました。

そんな彼のトレードマークである帽子の名前は何というかご存じですか。

また最近の白髪のかつら姿についても気になりますよね。

黒澤明監督との意外なエピソードも含めてまとめてご紹介します。

黒沢年雄のプロフィール

本名:黒沢年男

生年月日:1944年(昭和19年)2月4日

身長:175cm

出身地:神奈川県横浜市西区

最終学歴:日本大学高等学校中退

所属事務所:夢グループ

黒沢年雄の若い頃は苦労人で二枚目路線だった

朗らかな明るい笑顔が印象的な黒沢年雄さん。

その笑顔からは想像もできないくらい若い頃は苦労人だったことをご存じでしたか。

10代で亡くした母とのエピソードや俳優を目指した理由などを含め彼の若い頃をご紹介します。

若い頃に失った母が原点

黒沢年雄さんは横浜生まれ、4人兄弟の長男として育ちました。


父親はボイラー技士として働き、母親は家事の傍ら内職をして家計を支えていましたが、お世辞にも裕福な家庭ではありませんでした。

そんな家族は黒沢年雄さんが16歳の頃に悲劇に見舞われます、母親が咽頭ガンで他界するのです。

母親は亡くなる前、長男の黒沢年雄さんに向け次のような言葉を言い残したと言います。

年男(本名)、頼むよ

高校生にして家族のことを託された黒沢年雄さん、父親の給料だけでは弟たちを食べさせてやることが出来なかったため高校を中退し働き始めます。

キャバレーのバンドマン、工場作業員、訪問販売セールスマン、ウェイター、陸運運転手など色々な仕事をしながら俳優を目指したそうです。

普通だったら自分の悲運を嘆いてしまいそうですが、常に明るく前向きな黒沢さん。

若い頃色々な仕事をしたことが、後の俳優人生に役立ったとポジティブに回想しています。

スターになり大金を稼ぐため俳優に

芸能界を目指す理由は十人十色ですが、黒沢年雄さんの場合は「スターになり、金持ちになりたい」という理由でした。

長男として、母親に託された弟たちをお腹いっぱい食べさせてあげたいという思いがとても強かったようです。

いくつもの職場で働きながら映画会社のオーディションを受け、見事1964年に東宝に合格。

実は東宝だけでなく大映も日活も合格したそうですが、一番大きな会社だからという理由で東宝に入社を決めたと明かしています。

オーディションの時は「受験番号と名前を言って自己紹介せよ」という審査員の指示にわざと従わなかったり、床を転げまわってみたりと強烈なインパクトを残すことを考えたそう。


本人は自身がオーディションに通った理由を、「他の候補者にはないエネルギーがあったからであろう」と分析しています。

貧乏から抜け出したい、家族に贅沢をさせたいという強い思いが黒沢さんに人並外れたエネルギーを与えていたのでしょう。

東宝入社後の黒沢年雄さんは1966年成瀬巳喜男監督の『ひき逃げ』で主演に。

1967年には映画『日本のいちばん長い日』に戦争終結に反対する青年将校役で出演するなど俳優としての道を確実に歩んでいました。

しかし順調に見えた芸能生活に大転換期が訪れます、1971年に映画会社が俳優を囲い込む「五者協定」が廃止されるのです。

これにより黒沢年雄さんを含め、すべての俳優がフリーの立場に。

自身の収入で一家を支えていた黒沢さんは、仕事がなくなるという不安から自殺を考えたことすらあったといいます。

そんな黒沢年雄さんに次に訪れたのが歌手活動の話。

日本コロムビアのプロデューサーに誘われ歌を出すことになると、75年に『やすらぎ』、78年には『時には娼婦のように』を歌いヒットさせ音楽活動でも成功をおさめます。

その後80年にはテレビドラマ『ザ・ハングマン』に出演し、テレビでも活躍を見せました。

プライベートでは1975年パリでモデル・街田リーヌさんと出会い一目ぼれ、

翌76年に結婚し、77年には長女レイラさんが誕生しています。


今でこそおもしろいおじさんというイメージもありますが、若い頃の黒沢年雄さんは二枚目路線。

「結婚したい独身男性ナンバーワン」に輝いたこともあるほどだったのです。

私生活では若い頃に苦労も多かったようですが、それを跳ね返すくらいのエネルギーに満ちた男性だったと言えそうです。

黒沢年雄がかぶっている帽子の名前はイスラムワッチ

黒沢年雄さんと言えば、帽子を被っているイメージが強いですよね。

普通のニット帽とは少し違うあの帽子の名前は、イスラムワッチ、イスラムニットキャップ、イスラム帽と言います。

もはや彼の体の一部というくらい良くお似合いですよね。

いわゆる普通のニットキャップよりも浅めで頭にピッタリフィットするデザインで、あたまにちょこんとのかっている感じが特徴的。

ネット上にはあのタイプの帽子を探している人が「黒沢年雄さんが被っているような帽子は何という名前ですか」と質問しているのをよく見かけるほど世間にも定着しています。

もはやイスラムワッチの代名詞になっている感すらある黒沢年雄さんですが、ついには彼自身がイスラムワッチをプロデュースし販売も。

帽子の正面にはオリジナルロゴがあしらわれているかわいいデザインになっています。

劇団ひとりさんがその帽子を購入し被った様子がSNSに投稿されたことも。

帽子の正式な名前は不明でも、「黒沢年雄さんの帽子」で伝わるくらい定着している帽子姿ですが、黒沢年雄さんは若い頃からあの帽子を被っていたわけではありません。

実は彼がイスラムワッチを被りはじめたのは、1992年ガンをの闘病が始まった時のこと。


ガンとの闘病を決意して頭を丸めたところ、物足りなく感じたことからか帽子をぶり始めたと言います。

また常々自身の事を二流と語る黒沢年雄さん。

自身には人より優れていることはない、だからこそ自分にしか出せないキャラクターを作り上げようといつも考えているそう。

トレードマークとなった帽子もひげもその一環、彼なりのセルフプロデュースの結果なのです。

本人の作戦は功を奏し、今では黒沢さん=帽子というくらいシンボリックなアイテムとなりました。

黒沢年雄、最近はかつらをかぶり白髪姿

もはや帽子が体の一部となっている感のあった黒沢年雄さんですが、近頃はかつらをかぶり白髪老紳士にイメチェン。

トレードマークの帽子姿を見られないのは寂しいですが、常に新しいことに挑み続けるエネルギッシュさは黒沢年雄さんらしいかもしれません。

2019年1月には25年ぶりに発表した新曲『ゆかいなじいちゃん』のPRのため渋谷に登場した黒沢年雄さん。

白髪のかつらに赤フレームのサングラスという風変わりない出立ちで、1キロに渡り街中を練り歩きました。

道ゆく人の評判も上々だったようで本人もご満悦の様子。

公式ブログで確認する限りこの頃から帽子の代わりに白髪のかつら着用がデフォルトとなったように見受けられます。

これからは帽子に変わってかつら姿が黒沢年雄さんのトレードマークになるのでしょうか。

黒沢年雄と黒澤明は他人、黒澤明が黒沢年雄に改名を迫った?

黒沢年雄さんと黒澤明監督、同時期に映画界で活躍した2人が家族や親戚と思う方もいるかもしれませんが、2人は赤の他人です。


ちなみに黒沢年雄さんが東宝のオーディションを受験した際、苗字だけを見て黒澤明監督の息子と勘違いした審査員もいたというエピソードも。

そういう意味では黒沢姓は黒沢年雄さんにとってはラッキーと言えるのですが、逆にそのせいで損をしたこともあるのです。

それを示してくれるのが黒沢年雄さんと黒澤明監督の間に起こった嘘のような本当のエピソード。

自身の芸能生活を振り返ると、大事な局面ごとにすごい人たちに引っ張り上げられてきたと語る黒沢年雄さん。

後に東宝映画の社長になる、藤本真澄プロデューサーに目をかけられて東宝に入社。

1966年には成瀬巳喜男監督作品『ひき逃げ』で主演に。

成瀬監督はたった一言のセリフを聞いて主演に起用してくれたというくらい、黒沢年雄さんといえば「持ってる人」というイメージがあります。

ある時、藤本真澄さんが黒澤明監督に、「おもしろい奴だから使って」と黒沢年雄さんのことを推してくれたことがあったそう。

しかしそれに対する黒澤明監督の返事が驚きなのです。

名前を変えたら使ってやる

黒澤明監督は漢字が違うとはいえ、監督と主演俳優が同姓というのが受け入れられなかったのでしょうか。

ちなみに黒沢年雄さんは東宝に入った直後「八方一郎」という芸名を与えられかけたことがあります。

プロデューサー会議で決まった芸名だったのですが、本人がこれを拒否。

その後提示された代替案も固辞したことから結局本名「黒沢年男」(現在は年雄に改名)でデビューしました。

歴史にifはないとは知りつつも、もしも彼が会社の提案を受け入れていれば、黒澤明監督にも起用されていたのかもなどと考えてしまいますね。


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