樹木希林の旦那は内田裕也。別居の結婚生活&再婚前の元旦那は岸田森

全身がんを公表したあとも悲壮感をにじませず、淡々と生きて生涯現役を貫いた樹木希林(きききりん)さん。

夫である内田裕也さんとは、何かと注目を集める夫婦でした。

今回は彼らの風変わりな結婚生活を振り返るとともに、元旦那についても詳しくみていきます。

樹木希林のプロフィール

本名:内田啓子

生年月日:1943年1月15日

死没:2018年9月15日

身長:160cm

出身地:東京都千代田区神田

最終学歴:千代田女学園(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)

樹木希林、旦那・内田裕也とのエピソード

単なる脇役を超越した助演者として唯一無二の存在感を見せつけた樹木希林さん。

還暦を迎えた年に左目を失明し、翌年に乳がんが発覚、そして70歳の時に全身がんを告白するなど、晩年は満身創痍でした。

人はいつか必ず死ぬ、それは避けられない運命、ならば最後まで現役でいるためにがんと生きる。


それが樹木希林さんが選んだ道でした。

息を引き取ったのは2018年9月15日。

最期は也哉子さん、本木雅弘さんら家族に囲まれ、内田裕也さんの声を電話越しに聞きながら旅立ったそうです。

妻の最期を看取ることができなかった裕也さんは、物言わぬ希林さんと対面すると「きれいだ、昔から美人だと思っていた」と笑い、所属事務所を通じて「見事な女性でした」とコメントを発表。

葬儀では体調不良を押して喪主を務めました。

ちなみに、内田裕也さんは2019年3月17日、肺炎のため79歳で死去。

妻の死から半年の出来事でした。

破天荒なロッカーだった夫

ロックシンガーとして知られ、俳優としても異彩を放った内田裕也さん。

平成世代には樹木希林の旦那、あるいは「ロケンロール」が口癖の変なおじいちゃんというイメージが強いかもしれませんね。

訃報記事のプロフィールをみても、ロックミュージシャン、俳優、都知事選出馬、逮捕歴といった破天荒な経歴ばかり。

おまけにシンガーとしての評価もけっして高くはなく、自虐ネタにするほどヒット曲もありません。

けれどその一方で、ザ・タイガースをはじめとする無名の若手を発掘したり、多くのビッグイベントを主催するなど日本のロックシーンに貢献した人物でもありました。

ロックミュージシャンというよりも、裏方としての功績が大きかった方といえるでしょう。


また政治やボランティア活動への関心も高く、東日本大震災の時はいち早く被災地に入り、炊き出しなどで被災者を支援。

荼毘(だび)に付された妻が骨つぼに納められ、蓋が閉められる時、「ちょっと待て」と止めたという裕也さん。

頭部の骨をしばらく見つめた裕也さんは、あごの骨を丁寧にハンカチに包み、そっとポケットにしのばせたといいます。

43年にわたり別居婚を続けた夫婦の絆が垣間見えるエピソードです。

出会いはドラマの撮影

樹木さんと内田さんの出会いは、1973年のことでした。

当時の樹木さんは、ホームドラマ『時間ですよ』に「悠木千帆」名義で出演し、高い人気を獲得していた頃。

同作品には、「ムッシュかまやつ」の活動名で知られるミュージシャン・かまやつひろしさんも出演していました。

そんなある日、かまやつさんと会う目的で内田さんが撮影スタジオにやってきたそうです。

樹木さんは、そこで内田さんと初めて会い、軽く雑談をしたのだとか。

この出会い以降、再会の機会はなかった2人。

再会のきっかけがあったのは、約2か月後に樹木さんが旅行をしたときでした。

神社めぐりが好きな樹木さんは、島根県の出雲大社を観光。


そのとき、境内に内田さんの姿が浮かび上がったため、樹木さんは再会のお告げと感じたそうです。

すると、後日すし屋に入った際、本当に内田さんと再会。

意気投合した2人はその日のうちに同棲を始め、約1か月後にはもう結婚してしまいます。

境内でのお告げどおりに再会して結婚とは、なんだかロマンティックですね。

ちなみに、結婚式が行われたのは築地本願寺。

費用は9500円で、仲人もいない地味な式だったそうです。

芸名「内田啓子」案に夫が反対

結婚後の1977年、大型特番『わが家の友だち10チャンネル』に出演した樹木さん。

同番組のチャリティーオークションコーナーで、芸名「悠木千帆」を出品するという驚きの行動に出ます。

競売にかけられた芸名は、服飾デザイナーの一般女性が2万200円で落札。

のちに女優の山田和葉さんへ譲渡されています。

この出来事により、樹木さんは新たな活動名を決めることになりました。


そこで考えたアイディアのひとつが、本名をそのまま名乗ること。

しかし、夫である内田さんから反対されたそうです。

反対の理由は、夫の個性が妻の芸に絡むからなのだとか。

内田さんはそうした影響をよくないと感じ、本名案を受け入れられなかったようです。

その後、TBSプロデューサーの久世光彦さんも参加する会議が開かれたものの、芸名はなかなか決まりませんでした。

最終的には、自分で辞書を引きながらいろいろな文字を組み合わせ、「樹木希林」という芸名が誕生。

その後も長く使い続ける名前となります。

当時の内田さんが本名案にすんなり納得していたら、「樹木希林」という名前は存在しなかった可能性もあるんですね。

別居43年の結婚生活

1973年にスピード結婚した樹木さんと内田さんですが、新婚時代は毎日のように怒鳴り合い、殴り合いの大げんか。

裕也さんのDVなどもあり、わずか1年半で別居生活に入りました。

以降は年に1、2回会うだけの距離感になり、そんな結婚生活の中で也哉子さんが誕生しています。

その5年後には、裕也さんが勝手に離婚届を提出。

これを拒否した希林さんが差し止め訴訟をおこして離婚成立を阻止する一幕もありました。


夫の女性問題や大麻所持騒動など度重なるトラブルに巻き込まれても、希林さんが離婚を考えたことは一度もなかったそうです。

破天荒な夫に振り回される気の毒な妻というイメージを抱かれがちだった樹木希林さん。

ですが、ご本人はこれを否定し、夫のことを「なかなか出会える人ではない」「私に必要な存在」と明言していました。

裕也さんもまた、妻のことを「これほどへこたれない女はいない」と評していたのだそう。

常人には理解しがたい夫婦の形ですが、その絆を43年間つなぎとめていたものは、希林さんの一途で嘘のない夫への愛だったのでしょう。

再婚前の元旦那は岸田森

樹木希林さんには二度の結婚歴があり、内田裕也さんとは再婚です。

最初の夫は1982年に43歳で他界した岸田森(きしだしん)さん。

ドラマ『氷点』、舞台『ハムレット』などに出演した俳優です。

希林さんは1961年に文学座1期生として付属演劇研究所に入所。

岸田森さんは同期生でした。

二人は1964年に結婚し、1966年にそろって文学座を退団。

その後、草野大悟さんらとともに劇団「六月劇場」を旗揚げします。

しかし結婚生活は長く続かず、4年で離婚。

嫁姑問題が原因という噂がありますが、真相は定かではありません。

岸田森さんは離婚した年にバーのマダムと再婚しますが、またもや離婚。

その後は女優の三田和代さんと事実婚関係にありました。

死の1カ月前、大腿骨骨折で入院した際は毎晩のように「裕也さんに会いたい」ともらしていたという樹木希林さん。


おそらく心からの素直な言葉だったのでしょう。

夫妻が45年かけて育んだ絆は、生や死を超えたところに到達したのかもしれません。

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