竹脇無我の兄・義果は元アナウンサー。家族、結婚と離婚について

映画『アンコ椿は恋の花』やドラマ『姿三四郎』など、数々の作品で主演を務めた往年のスター竹脇無我(たけわき むが)さん。

知性と品格を備えた男優として、「理想の夫No.1」と呼ばれていました。

しかし外面的イメージと、自身の内面とのギャップに苦しみ、精神を病んでしまいます。

彼の実際の人柄は、世間が抱くイメージと大きく異なっていたのでしょうか。

今回は無我さんについて、元アナウンサーである兄の義果(よしみ)さんと、家族の情報に迫ります。

また結婚と離婚の詳細を確認し、彼の人柄について考えてみます。

竹脇無我のプロフィール

本名:竹脇無我

生年月日:1944年2月17日

死没:2011年8月21日

身長:173cm

出身地:千葉県我孫子市

最終学歴:青山学院大学法学部

兄、義果は元アナウンサー

無我さんの兄である義果さんは、神奈川県のラジオ関東でアナウンサーとして活動していました。

6人兄弟の長男として1940年に生まれ、2021年で81歳になります。

青山学院大学在学中にヨット部を設立し、セーリング選手として活躍。


卒業後はアナウンサーとして順調に活動していました。

しかし1982年、42歳で失明し、アナウンサーを続けられなくなってしまいます。

どうやら深夜まで及ぶ仕事の影響で無理がたたり、左目から徐々に視力が低下していたようです。

絶望したと思われますが、間もなく新たな道を進み始めました。

退職後は、無我さんの個人事務所である「タケワキプロダクション」の設立に協力。

映画スターだった弟をテレビ業界でも活躍させようと、マネージャーとして出演交渉に尽力しました。

無我さんがテレビ業界で活躍できたことには、兄の協力が不可欠だったのでしょう。

さらに1996年には、「日本視覚障害者セーリング協会」を設立し、翌年には世界選手権で銅メダルを獲得しました。

ハンディキャップにめげることなく、自分の得意分野を活かせる活動へ、意欲的に取り組んでいたのでしょう。

もう1つ、義果さんには、六本木にある貸しギャラリー「タケワキスタジオ」のオーナーという顔もありました。

1977年の時点で、すでに失明の不安を感じていたため、アナウンサー以外の道を模索し始めます。

その後、借金した末に、六本木へ貸しスタジオを建設。

左目にかすかな光が残るだけの状態になっても、頭に浮かんだ空間のイメージをもとに、展示を企画しました。

2021年現在も、「タケワキスタジオ」は写真撮影の場として使われているようです。

義果さんは、逆境に負けない、行動力にあふれた人物であることがわかりましたね。

竹脇無我の家族について

次に竹脇家の人々について、もう少し詳しく見ていきます。

無我さんの父はアナウンサーとして活躍した、竹脇昌作さんです。

義果さんは父を同じ道を選んだことになります。

幼少期から美声の持ち主で、青山学院大学英文科を卒業後、NHK初の全国アナウンサー採用試験に合格。

しかし入局の翌月、養成期間中に解雇されてしまいます。

理由は、デモ活動に参加していた経歴があったため、当時の特高警察からNHK側に解雇要請があったというのが有力な説です。

NHKからは解雇されたものの、ラジオ番組「東京ダイヤル」のアナウンサーとして採用され、軽快な語り口が爆発的人気を呼びます。

彼の語り口は「竹脇節」と呼ばれ、「マダムキラーボイス」と評価されました。

しかし売れっ子アナウンサーだったからこそ、激務によって精神を病んでしまいます。

そして1959年3月、「皇太子ご成婚」の放送を最後に、「東京ダイヤル」を降板。

療養生活に入りますが、「東京ダイヤル」の開始時刻には、ついつい興奮していたそうです。

また徐々に回復していくにつれ、「早く復帰したい」と口にし始めていました。

しかし、「東京ダイヤル」で後任を務めた芥川隆行さんの語りが好評で、昌作さんは契約を打ち切られてしまいます。

さらに税金滞納を理由に、自宅の土地と電話を差し押さえられるという悲劇に見舞われました。

度重なる不運と、家族を養うことへの重圧によって、精神は崩壊。

1959年11月9日、自宅の物置にて首を吊り、49歳で亡くなりました。

マスコミによって追い詰められた結果の死だったとされ、「東京ダイヤル」は彼の死後、打ち切りとなっています。

昌作さんの6人の子供たちについては、一般人も含まれていて詳細はわかりません。


ただ次男の竹脇真理(まこと)さんは、敬虔なクリスチャンだったそうです。

1942年生まれで、麻布高校在学中の17歳の時、都民教会で洗礼を受けました。

父の自死をきっかけに信仰心を深め、伝道者を志します。

しかし脳腫瘍を発病、1年半の闘病を経て、わずか18歳で亡くなりました。

闘病中に、純粋な気持ちでつづった日記は、『勇ましく高尚な生涯-18歳で逝った若き信仰者の日記』として刊行されます。

限られた時間の中で、最後まで周囲の人々を思いやった、1人のクリスチャンの生涯を垣間見られる作品です。

一見、悲劇的な死を遂げた人が多い竹脇家。

しかし少なくとも真理さんは、与えられた命を懸命に輝かせたといえるでしょう。

竹脇無我の結婚と離婚

最後に無我さんの結婚と離婚について見ていきます。

1970年に雅美さんという女性と結婚し、2人の娘をもうけました。

しかし別居生活に至り、1997年に離婚。

その後は内縁の妻と同居していたそうです。

十朱幸代さんや、土田早苗さんといった女優との不倫が報じられることもあった無我さん。

ただそれだけではなく無我さんは、父と同じくうつ病を患っていたため、結婚生活がうまくいかなかったのではないでしょうか。

父は自殺、次兄は脳腫瘍で早世、長兄は失明という悲運が続いた竹脇家。

無我さんは、「いずれ自分も悲劇に見舞われる」という不安に、苛まれていたかもしれません。

また世間から求められる、「理想の竹脇無我」のイメージを保たなければならないプレッシャーに苦しんだはず。

うつ病で自暴自棄になった結果、妻と別居に至り、不倫も犯した末に離婚したのでしょう。

無我さんは決して、役柄のイメージ通りの誠実な人物ではなかったかもしれません。


しかし少なくとも、仕事に対して誠実であろうとするまじめな性格が、自身を追い込んだことは確かでしょう。

「二枚目スター」として一世を風靡した無我さん。

しかし本当の人柄を理解し、寄り添おうとしてくれた人々は、多くなかったのかもしれません。

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