古関裕而の戦時歌謡とは。慰問と戦争体験、徴兵の真実とインパール従軍について

2020年の朝ドラ『エール』で注目された作曲家、古関裕而(こせき ゆうじ)さん。

朝ドラでは数々の戦時歌謡を作ってきた主人公「古山裕一」が戦地へ赴きます。

壮絶な体験を経て、歌で多くの人々を死に追いやった責任を感じ、苦しむ描写がありました。

しかしドラマの描写は、史実とは大きく異なっています。

そもそも『露英の歌』をはじめ、彼が実際に作曲したのは「戦時歌謡」ではなく、紛れもなく「軍歌」だったはず。

なぜドラマ内では「軍歌」という言葉を排し、「戦時歌謡」という呼称にこだわったのでしょう。

今回は『エール』で描かれた戦時歌謡の背景を掘り下げます。

併せて古関さんの慰問体験と戦争体験、徴兵とインパール従軍の真実に迫ります。

古関裕而のプロフィール


本名:古關勇治

生年月日:1909年8月11日

死没:1989年8月18日

身長:不明

出身地:福島県福島市

最終学歴:福島商業学校(現在の福島商業高等学校)

朝ドラ『エール』の戦時歌謡について

朝ドラ『エール』で使われていた「戦時歌謡」という言葉。

古関さんが実際に作ったのは「軍歌」であり、彼は戦時中に「軍歌の覇王」と呼ばれていました。

ではなぜドラマ内で「軍歌」ではなく、「戦時歌謡」という言葉を使ったのでしょうか。

古関さん自身は、「軍の命令で歌うのが軍歌。大衆が歌うのは戦時歌謡である」と述べています。

要するに戦時歌謡とは、国民の心から生まれ、彼ら自身が好んで歌う曲といえますね。

しかし彼が作った曲は、軍の要望に沿い国民を鼓舞していた点で、「軍歌」だったのです。

軍歌は国民の戦闘意欲を駆り立てる効果があります。

軍歌に感動した国民は、無意識のうちに戦争を賛美し始めるのです。

しかし「軍歌」を「戦争歌謡」と言い換えれば、いかにも大衆の内面から生まれた流行歌のように扱われます。

ただし「戦時歌謡」は、戦後の造語であり、その点で『エール』の演出は紛れもなくフィクションです。

『エール』の主人公「古山裕一」は、「戦時歌謡」を作った責任を感じ、苦しみました。

しかし実際の古関さんは、「軍歌の作曲は仕事だから」と割り切っていたため、戦争責任にそこまで苦しんでいません。

ただ後世のファンが彼の戦争責任をぼかすために、「彼は軍歌ではなく、あくまで戦時歌謡を作っていた」と主張したのでしょう。

朝ドラでは主人公が、国民を洗脳する「軍歌」ではなく、国民が自ら好んで歌う「戦時歌謡」を作ったことにしたのかもしれません。

古関裕而の慰問、戦争体験

古関さんは3度、慰問として戦地へ赴いています。

ただしドラマのように壮絶な戦争体験をしたわけではありません。

1度目は「レコード部隊」の一員として、西城八十らと上海や南京を慰問。

『露営の歌』の作曲者として、兵たちから歓声を浴びたそうです。

この時の体験から、『暁に祈る』が生まれました。

2度目は日本放送協会の南方慰問団へ参加し、台湾やビルマを慰問。

1942年10月から4か月ほどかけて、さまざまな地域を巡りました。

当時はまだ戦況が悪化しておらず、慰問は楽しかったようです。

古関さんはシンガポールで、接収したディズニー映画『ファンタジア』を楽しみました。

最前線のビルマでは、シンガポールよりは苦労したようですが、露天風呂に入ってくつろげたといいます。

古関さんの壮絶な戦争体験を予想していた人々は、やや拍子抜けするかもしれませんね。

古関裕而は徴兵された?

『エール』の古山はドラマ内で召集令状を受け取ったものの、即日解除される場面がありました。

理由は「文化人」として、特別扱いされたためです。


実際の古関さんにも、1945年に海軍への入団命令が届いています。

しかし事務処理のミスによる、徴兵だったそうです。

横須賀海兵団への入団命令が下った際、「丙種」で不合格だったはずの古関さんは驚きました。

しかも当時、海軍省の命令で「特幹練の歌」を作曲中でした。

問い合わせたところ、本名「古關勇治」を作曲家「古関裕而」と気づかれず、ミスで召集されたと判明。

しかし召集命令は取り消せない決まりだったため、「すぐ徴兵解除する」という条件で入団したのです。

事務担当の「第100分隊」へ入団した古関さん。

この隊は、ジャズ・ミュージシャンの多忠修さん、歌手の霧島昇さん、書家の青山杉雨さんら文化人が在団した隊です。

古関さんも文化人として特別待遇を受けたといいます。

しかし事務方が処理を後回しにしたのか、召集は解除されませんでした。

ようやく「重要要務者として召集解除」されたのは、1か月目だったそうです。

ただ本人は入団中、悠々自適に過ごしていたようですね。

インパール、ビルマへ慰問

朝ドラでは、古山がインパール作戦中の激戦地で、恩師と再会する場面がありました。

実際の古関さんも、インパール作戦中の1944年に、ビルマを慰問しています。

インパール作戦とは、ビルマの防衛線を拡大することで、中国への支援物資を届けるルートを遮断する作戦です。

古関さんは、作戦を指揮した陸軍中将の牟田口廉也と直接会っています。

また共に慰問していた作家の火野葦平から歌詞を渡され、『ビルマ派遣軍の歌』を作曲しました。

激戦地でペストも蔓延していたビルマでは、古関さんもこれまでよりは苦労したかもしれませんね。

朝ドラでは古山が激戦地で生き延びる姿を描き、戦争の悲惨さを直接訴えました。


しかし史実の古関さんは、もう少しゆるく戦争時代を生きていたのです。

『エール』はあくまでも、わかりやすい形で反戦を訴えた、フィクション作品といえるでしょう。

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