古関裕而、息子・正裕との関係。職業歴にバンド活動の息子&家族と兄弟まとめ

朝の連続テレビ小説『エール』(2020年)で話題となった、作曲家の古関裕而(こせき ゆうじ)さん。

彼がモデルとなった主人公「古山裕一」には、一人娘がいるという設定でした。

しかし実際の古関さんには、息子がいたのです。

今回は古関さんの息子について、職業はバンド活動という情報を確認しましょう。

また家族と兄弟についても見ていきます。

古関裕而のプロフィール

本名:古關勇治

生年月日:1909年8月11日

死没:1989年8月18日

身長:不明

出身地:福島県福島市

最終学歴:福島商業学校(現在の福島商業高等学校)

古関裕而は息子に音楽の教育を受けさせた

古関さんの息子は、1946年生まれの古関正裕さんです。

父の古関さんは有名作曲家、母の金子(きんこ)さんは音楽学校で声楽を学んだ女性でした。


そのため正裕さんは、幼い頃から音楽に満ちた環境で育ちました。

両親は息子に音楽のエリート教育を受けさせようとします。

こうして小学生の頃は、有名なピアニストが教える音楽教室へ、無理やり通わされたそうです。

息子とのエピソード

古関正裕さんの音楽への情熱は、幼少期から父親の影響を強く受けて育まれたと言われています。

父親の古関裕而さんもまた、「オリンピック・マーチ」や「栄冠は君に輝く」など、数々の名曲を世に送り出した作曲家でした。

家庭環境が音楽に溢れていたことは、古関正裕さんの音楽キャリアに大きな影響を与えたと考えられます。

幼い頃から父親の仕事場で過ごす時間が多く、自然と音楽に触れる機会に恵まれていたのです。

このような環境が、彼の音楽的才能を開花させる土壌となったことは想像に難くありません。

父親の古関裕而さんは、息子に対して厳しくも温かい指導を行っていたようです。

音楽の基礎から応用まで、丁寧に教えていたと伝えられています。

しかし、単に技術を教えるだけでなく、音楽に対する姿勢や情熱も伝えていたことでしょう。

父子で紡ぐ音楽の絆

古関正裕さんは、父親の指導のもとで着実に音楽の腕を磨いていきました。


しかし、単に父親の後継者として歩むだけでなく、自身の個性を生かした音楽スタイルを確立していったと言えるでしょう。

これは、父親が息子の才能を認め、自由な創作活動を支援していたからこそ可能になったと考えられます。

父子の絆は音楽を通じてさらに深まり、時には共同で作品を制作することもあったそうです。

このような経験は、古関正裕さんにとって貴重な学びの機会となったに違いありません。

父親の技術や経験を直接吸収できる環境は、彼の音楽家としての成長を大きく後押ししたと言えるでしょう。

古関正裕さんは、父親から受け継いだ音楽への情熱と技術を、自身の作品を通じて次世代に伝えています。

これは、父親との思い出深いエピソードの数々が、彼の創作活動の原動力となっているからかもしれません。

  • 父親の仕事場で過ごした幼少期の思い出
  • 厳しくも温かい父親からの音楽指導
  • 共同制作を通じて深まった父子の絆

このように、古関正裕さんと父親とのエピソードは、音楽を通じた深い絆と、世代を超えて受け継がれる芸術の素晴らしさを物語っています。

彼らの関係は、単なる親子関係を超えた、音楽家同士の尊敬と信頼に基づいたものだったと言えるでしょう。

そして、この特別な関係が、日本の音楽界に大きな影響を与え続けているのです。

息子の職業歴にバンド活動あり

無理やり習わされた上に、課題曲がハイレベルだったため、子供の頃のピアノレッスンはつまらなかったという正裕さん。

しかし高校生の時、仲間と組んだカントリーバンドでピアノ演奏したことで、音楽の楽しさに目覚めました。

そして正裕さんは、早稲田大学へ進学後、本格的にバンド活動を始めます。

大学で数学を学ぶ傍ら、グループサウンズのバンド「ヴィレッジ・シンガーズ」にキーボードとして参加したのです。

しかしバンドがプロデビューする際、正裕さんは脱退してしまいます。

実は音楽家の道へ進むことを、高校生の時点で父から反対されていたのです。


「お前は考えて作曲しているから、プロにはなれない」と言われた正裕さん。

父の古関さんは、天才的な感性の持ち主で、思いつくがままに作曲していました。

だからこそ必死にメロディーを考えて曲作りする息子には、プロとしての才能がないと考えていたのです。

正裕さんも、「偉大な父を超えられない」と考え、プロの道を断念。

1966年に「ヴィレッジ・シンガーズ」が、ファースト・シングル『暗い砂浜』を発売する前に脱退しました。

こうして正裕さんは、大学卒業後に日本経済新聞へ入社し、コンピュータ関連部署で勤めます。

しかし一筋縄ではいかないのが、彼の人生でした。

1998年に退職後、ブティック経営を開始。

父方の実家が「喜多三」という呉服店だったため、やはり血は争えなかったのでしょう。

ちなみに父の古関さんは、呉服店の息子らしく着物好きで、おしゃれだったといいます。

正裕さんの開業後、学生時代のバンド仲間が退職する年代に入り、みんなで「親父バンド」を作ろうと考えました。

「父の曲をバンドで演奏するのも悪くない」と思い立ち、ピアノを再び習い始めます。

そして歌手の鈴木聖子さんと共に、父の実家の屋号にちなんだユニット「喜多三」を結成。

2013年からライブ活動を開始し、正裕さんはシンセサイザーを演奏しています。

かつて音楽の道を諦めたものの、今では大好きな音楽活動を再開し、悠々自適に暮らしているのでしょう。

古関裕而の息子の家族、兄弟

正裕さんは、両親と姉2人の5人家族でした。

姉は1932年生まれの雅子さんと、1934年生まれの紀子(みちこ)さん。

雅子さんは医師の染谷一彦さんと結婚しました。

紀子さんは会社員の男性と、見合い結婚しています。

『エール』では、主人公の子供は「華」という娘だけでした。

1人の娘の心情を深ぼりするため、雅子さんと紀子さんを合体させた人物を作り出したのでしょう。

ドラマには、華が恋に落ちるロカビリー歌手・霧島アキラが登場。

おそらくバンド活動していた正裕さんが、霧島というキャラクターに投影されているのでしょう。

2024年現在、古関家の子供たちはいずれもご健在のようです。


正裕さんは2020年、両親の往復書簡を参考に、小説『君はるか 古関裕而と金子の恋』を執筆しました。

両親の恋愛模様を描き、小説家デビューを果たしたのです。

偉大なる作曲家の息子は、さまざまな分野で表現活動を行う、マルチな才能の持ち主だったといえるでしょう。

関連記事
古関裕而の娘は雅子と紀子、夫の職業まとめ。看護師ではない&現在の活動

古関裕而の養子先と兄弟、生家の苦労。留学取り消し理由とは

古関裕而の戦時歌謡とは。慰問と戦争体験、徴兵の真実とインパール従軍について

古関裕而の孫は?人柄、吃音症の原因について。友達・伊藤久男とのエピソード

古関裕而の経歴。竹取物語との縁。六甲おろし&モスラ。慶応・早稲田の応援歌まで

古関金子の実家、娘と兄弟について。株取引に夢中?オペラ歌手の夢

菊田一夫の妻は女優、息子はいない?森光子との師弟関係&エールで話題「君の名は」

コメント