朝ドラ『エール』(2020年)で一躍注目された、作曲家の古関裕而(こせき ゆうじ)さん。
ドラマでは古関さんがモデルの主人公「古山裕一」が、養子になる前提で、伯父が営む「川俣銀行」に勤めていました。
今回は実際の古関さんの養子先、兄弟、生家について確認しましょう。
また留学取り消し理由にも迫ります。
古関裕而のプロフィール
本名:古關勇治
生年月日:1909年8月11日
死没:1989年8月18日
身長:不明
出身地:福島県福島市
最終学歴:福島商業学校(現在の福島商業高等学校)
古関裕而の養子先は?
朝ドラで古山の就職先だった「川俣銀行」は、母方の伯父「権藤茂兵衛」が営んでいました。
何が嬉しいって風間杜夫さんが風又の時の窪田君について触れている事です。
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古山は経済的な事情により、権藤家の養子となる前提で銀行へ就職するのです。
ドラマはあくまで史実を基にしたフィクションのため、実在の人物と登場キャラクターの名前は異なります。
しかし川俣銀行は実在し、古関さんが実際に勤めた場所でした。
今でも「東邦銀行川俣支店」として、福島県の川俣町で営業を続けています。
実際の古関さんは商業高校を卒業後、1928年に同銀行へ就職。
ここでは母方の伯父である武藤茂平が、頭取を務めていました。
武藤は朝ドラに登場する「権藤茂兵衛」のモデルです。
川俣町屈指の資産家だった武藤は、しょうゆや味噌を醸造する「ちりめん屋」を経営。
古関さんは実家の家業が傾いた結果、武藤に誘われ、銀行へ勤めることになったのです。
こうして彼は母の生家に居候し、銀行へ勤務。
その傍ら作曲家を夢見て、音楽の勉強を続けていました。
古関さんはドラマと異なり、伯父の家へ養子に入ったわけではなく、あくまで就職先の面倒を見てもらっただけだったのです。
古関裕而の兄弟
古関さんには、5歳年下の弟である弘之(ひろし)さんがいました。
弘之さんは「東京高等工芸学校」(現在の千葉大工学部デザインコース)を卒業し、工芸デザイナーとなります。
しかし古関家を継ぐため、福島県の実家に戻り、福島県庁へ就職しました。
本当はデザインの仕事をしたかったものの、やむを得ず地元で働くことになったのでしょう。
ただ兄と同じく音楽が好きで、市民オーケストラでフルートを担当しており、それなりに充実した日々を送っていたようです。
50歳を過ぎてから、再度上京してデザインの仕事へ復帰。
以降はデザイン界で70歳頃まで活躍したそうです。
具体的には図案のデザインやコンサルタントを担当していました。
退職後は、茨城県阿見町で暮らし、町の自然や民家の風景をスケッチ。
スケッチした絵は阿見町の広報誌「広報あみ」にも掲載されました。
水彩画家としては、全国的に名を知られ、展覧会も開催されています。
見覚えのある苗字だなぁと思ってチラシをよく読んだら、弟さんはデザイン系のお仕事していたのですね。
芸術系の血筋とは知らなかった。
お近くの方は是非!#朝ドラ #エール #古関裕而 の弟#古関弘之 #茨城 #阿見 pic.twitter.com/zMqr4A3Ehv— もふもふ@土曜日のパン屋さん (@mmtscat2) November 26, 2020
弘之さんは兄を亡くした2年後、1991年に亡くなります。
故郷のために貢献しながら、芸術方面でも実績を残した人物でした。
古関裕而の生家
古関さんの生家は、福島県の大町にあった呉服店「喜多三」。
【#エール 視聴メモ】2話。
・喜多一=喜多三
・古山三郎=古関三郎次
・古山まさ=古関ひさ
・古山浩二=古関弘之
・権藤茂兵衛=武藤茂平
で、細かいところはともかく、設定はほぼ史実どおり。喜多三のレジスタは有名で、写真にも残っています。 pic.twitter.com/NrD0qpRaPg— 辻田 真佐憲@『新プロパガンダ論』刊行 (@reichsneet) March 31, 2020
十数人の番頭や小僧が働くほど、繁盛していました。
明治末期、東北で2台目の「ナショナル金銭登録機」を使用していたそうです。
古関さんの父は音楽好きで、当時は珍しかった蓄音機を購入し、暇さえあればレコードをかけていました。
古関さんも音楽を聴いて育ち、作曲家としての感性を養ったのでしょう。
しかし裕福だった「喜多三」は徐々に経営が傾き、1922年に廃業します。
一家は以降、福島市新町へ転居。
古関さんは銀行員として一家を支えることになるのです。
留学取り消し理由とは
『エール』では古山が、「イギリス留学取り消し」の通達を受け取るシーンがありました。
裕一さんはあまり自分の気持ちを言葉にしないから、ここまで頑なに「自分の音楽」にこだわっているとは思わなかったな…
留学出来なかった悔しさが拭えていないことも…自分のために作った曲は人の心に響かない
人を元気付ける応援歌が、それを気付かせてくれますように#朝ドラエール #エール pic.twitter.com/iOgR3hU42h— いねまき (@inemaki) May 18, 2020
実際の古関さんは銀行に就職後も、独学で音楽の勉強を続けます。
憧れの作曲家である山田耕筰の理論を教本で覚え、山田本人と手紙のやり取りもしました。
1929年、努力が実り、イギリスの「チェスター楽譜出版社」主催の作曲コンクールで入賞。
イギリス留学の資格を手に入れ、古関さんは意気込みます。
しかし実家の廃業で、音楽留学は経済的に不可能でした。
さらに入賞が新聞で報じられた結果、豊橋市で歌手を目指していた内山金子(きんこ)さんからファンレターを受け取ります。
文通を始めた2人はスピード結婚。
古関さんは家族を養うため、「日本コロムビア」の専属作曲家となりました。
つまり経済的な理由と結婚により、古関さんは留学を諦めたのです。
それでも、独学でプロ作曲家デビューしたことを考えると、結果オーライといえるでしょう。
朝ドラで全国に「エール」を届けた古関さんの生涯。
どんな状況にあっても夢を諦めなかった彼の人生は、今後も多くのファンを惹きつけることでしょう。
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