古関裕而の経歴。竹取物語との縁。六甲おろし&モスラ。慶応・早稲田の応援歌まで

生涯を通して作曲した曲数は5000曲とも言われる古関裕而(こせきゆうじ)さん。

その楽曲の多くが今も人々に愛され、歌い続けられています。

古関裕而のプロフィール

本名:古關勇治

生年月日:1909年8月11日

死没:1989年8月18日

身長:不明

出身地:福島県福島市

最終学歴:福島商業学校(現在の福島商業高等学校)

古関裕而の気になる経歴

2020年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説「エール」。

このドラマの主人公、古山裕一のモデルとなったのが古関裕而さん。

当時はまだ珍しかった蓄音機を所有するほど父が音楽好き。

そのため幼少期から音楽に親しんで育ち、独学での作曲も開始。


小学生の頃には曲作りが評判となり、友達から「自作の詩に曲をつけて欲しい」と頼まれるように。

きっとこの頃には将来は作曲家になると決めていたのでしょう。

14歳で日本でも指折りのハーモニカバンドに入団し、作曲や編曲を担当。

その後、母方の伯父が頭取だった川俣銀行に勤務しながら音楽の勉強は続けていました。

そして20歳の頃にイギリスの音楽雑誌に掲載された楽曲募集の案内を見て「竹取物語」など5作品を応募。

その結果、5曲全てが二等に入賞という快挙を達成。

この快挙がきっかけとなり1930年からはコロムビア専属の作曲家に。

それから4年後の1935年に作曲した「利根の舟唄」が大ヒット。

それ以降も数々のヒット曲を世に送り出し「コロムビア三羽ガラス」の1人として脚光を集めました。

太平洋戦争中は軍歌や戦時歌謡。

戦後は流行歌やスポーツ音楽など、その時代に人々が求める楽曲を次々に発表しています。

その後もテレビやラジオ、ミュージカルのために楽曲を制作。

また、審査員としてテレビ番組に出演した事もありました。

長年に渡って日本音楽界に貢献してきた古関裕而さんですが脳梗塞のため1989年に死去。

ただ、亡くなってから改めて功績の大きさを実感する人々が多かったのでしょう。

そして遺族の元には国民栄誉賞授与の打診があるも死後の受賞に疑問を感じた遺族は受賞を辞退してしまいます。

ドラマを通じて功績が世間に知れ渡った古関裕而さんですが、まだまだ過小評価。

もっと評価されるべきと思わずにはいられません。

古関裕而は竹取物語が縁で結婚した

「竹取物語」などの入賞がきっかけで注目を集めた古関裕而さん。

そしてこの快挙を伝える報道を見てファンレターを送ったのが後に妻となる内山金子さんでした。

内山金子さんも声楽家志望という事で音楽への造詣が深かったのでしょう。

その後、二人は100通を超える文通を交わし結婚する事に。

文通で愛を深めるなんて時代を感じさせますよね。

SNSが当たり前となった今では見た目が交際のきっかけになる事が多いはず。

ですが、文通では相手の容姿を知る事は出来ません。

ただ、容姿ではなく内面に惹かれるからこそ愛が深まるのでしょう。

昔の芸術家は放蕩者も少なくありませんが、古関裕而さんは大の愛妻家。

亡くなるまでおしどり夫婦だったそうです。

愛情があったのは勿論、互いの才能を認めあう思いも夫婦円満の秘訣だったでしょうね。

もしかすると曲の中には何かしら妻がアドバイスをした曲があったのかも知れません。

古関裕而は「六甲おろし」も作曲していた

夏の全国高等学校野球選手権大会の大会歌として知られる「栄冠は君に輝く」。

この歌を聞いて夏が来た事を実感する人も多い事でしょう。

この楽曲を作曲したのも古関裕而さん。

高校野球に相応しい曲の構想を得るためグラウンドのマウンドにまで立ったそうです。

懸命にプレーする高校球児を応援したいという思いから生まれた一曲。

その思いに多くの人々が共感するからこそ、今も歌い継がれているのでしょう。

そして古関裕而さんが楽曲した野球に関する不朽の名曲がもう一つ。

それが阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」こと「阪神タイガースの歌」。


同曲は現存するNPBの12球団で最古の球団歌。

制作されたのは1936年で、当時は「大阪タイガースの歌」というタイトル。

1961年に球団名が変更となった時に改題され、今も歌い継がれています。

阪神タイガースの球団歌を作曲した事から古関裕而さんは阪神だったと思う人もいるかもしれません。

ですが、プロ野球には全く興味が無かったそうです。

その証拠に古関裕而さんは阪神とライバル関係にある読売巨人軍の球団歌も作曲。

その他、中日ドラゴンズの球団歌も作曲しています。

野球に興味がないにも関わらず、プロ野球ファンに愛される曲を作れるのは凄いこと。

類まれな才能があるから成せる業なのでしょうね。

「モスラの歌」も代表曲の一つ

ゴジラ、ラドンと並び「東宝三大怪獣」と呼ばれるモスラ。

怪獣映画と言えば子供向けというイメージの人が多いでしょう。

そんな中、「若い女性にも見てもらえる怪獣映画」として制作されたのがモスラでした。

そのためモスラは怪獣でありながら人間の味方。

「小美人」という双子の妖精が誕生したのも女性を意識してのもの。

その小美人がモスラを呼び寄せる時に歌うのが「モスラの歌」。


この作曲を手掛けたのも古関裕而さんでした。

映画に登場する架空の島「インファント島」で守護神として崇められるモスラ。

そのモスラの神々しさを見事なまでに表現した楽曲。

この楽曲がモスラ人気の要因となっている事は間違いありません。

きっと映画を見た後は誰もがモスラの歌を口ずさんでしまった事でしょう。

なお、モスラの歌は「エール」の最終週に放送されたコンサートでも披露されています。

この事からも古関裕而さんを語るうえで外さない1曲である事が分かりますよね。

慶応と早稲田の応援歌も作曲

長年に渡ってライバル関係にある早稲田大学と慶應義塾大学。

スポーツや学業など様々な場面で鎬を削りあっています。

そんな中でも特に激しい戦いが繰り広げられるのが野球。

両校の試合は「伝統の一戦」と呼ばれ毎回、大きな注目を集めています。

古関裕而さんはそんな両校の応援歌も作曲しているんです。

始めに作曲したのは早稲田大学で、1931年に応援歌「紺碧の空」を作曲。

この頃の早稲田大学は慶應大学に連敗中。

そこで「何かのきっかけになれば」と新たに応援歌を作成する事になったのでしょう。

そして作曲者として白羽の矢が立ったのが古関裕而さんでした。

これで風向きが大きく変わったのかもしれません。

制作当初は第六応援歌でしたが、今や第一応援歌となっています。

ただ、これで面白くないのが慶應大学の方。


そして1946年に応援歌「我ぞ覇者」の作曲を依頼しています。

こうして両校が古関裕而さんが作曲した応援歌を使うように。

これをきっかけに伝統の一戦が更に盛り上がるようになった事でしょうね。

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