作家・評論家として活動し、メディア出演もこなした坪内祐三(つぼうち ゆうぞう)さん。
まだまだ活躍すると思われた61歳で亡くなりました。
今回は坪内さんの死因である心不全、妻の佐久間文子(さくま あやこ)さんについて、詳しく見ていきましょう。
また日本を代表する作家で英文学者の坪内逍遥とは家族関係にあるのか確認し、経歴をまとめます。
坪内祐三のプロフィール
本名:坪内祐三
生年月日:1958年5月8日
死没:2020年1月13日
身長:不明
出身地:東京都
最終学歴:早稲田大学大学院英文科
坪内祐三の死因は心不全
2020年1月13日、坪内さんは心不全により61歳で逝去。
亡くなる直前まで複数の連載をこなしており、早すぎる死は出版関係者に衝撃をもたらしました。
坪内さんはかなりの酒豪だったようで、もしかするとお酒の飲みすぎが、寿命を縮めてしまった原因かもしれません。
原因には不整脈や高血圧も考えられるため、一概にお酒のせいとはいえませんが、心臓に負担がかかっていたことは確かでしょう。
年齢が近いせいか(彼は2歳下)彼の突然の早過ぎる死が人ごとではなく、彼の言葉を噛みしめる日々です#坪内祐三 pic.twitter.com/uluTTjwaqH
— あわお法律事務所弁護士粟生猛 (@0qCdjlPlxdgupaz) January 19, 2021
交流のあったノンフィクションライターの一志治夫さんによると、晩年の坪内さんはお酒を飲むスピードが速かったそうです。
多忙な日々を過ごすうちに、楽しみであるはずの飲酒すら、スピーディーにこなすようになったのかもしれません。
坪内さんが亡くなる13日前にも、2人は一緒に飲酒していました。
その際も彼は2時間足らずで、ウイスキーのボトル1本をほとんど飲み終えたといいます。
一志さんは彼に対して、「酒ぐらい、落ち着いて飲めばいいのに」と思ったそうです。
坪内さんは仕事もお酒もすべて全力で取り組んだ結果、あっという間に世を去ってしまったのでしょう。
妻は文芸ジャーナリストの佐久間文子
坪内さんの妻は、文芸ジャーナリストの佐久間文子さんです。
文学界 創刊1000号。まだ全部読んでないが、私には津村記久子さんの『レスピロ』が刺さった。あと佐久間文子さんの『文学界事件簿』も興味深く読ませてもらった。 pic.twitter.com/P2SyQJxK24
— ベンジャミン (@KR8ZPyjQwmJzu5i) January 15, 2021
1964年に大阪府で生まれ、朝日新聞社に記者として入社します。
文化部に所属し、「AERA」や「週刊朝日」でも文芸出版系の記事を執筆しました。
2009年から3年間、書評欄の編集長を務めたのち、フリーの文芸ジャーナリストとなります。
結婚の正確な時期はわかりませんが、1999年頃だったようです。
坪内さんは元々、写真家の神蔵美子(かみくら よしこ)さんと結婚していました。
神蔵さんは寺山修司の劇団「天井桟敷」の撮影や、写真集『たまきはる』の出版で知られるアーティストです。
2人は1990年代に結婚しましたが、それぞれ別の相手を愛するようになりました。
結果的に破局したのち、彼女は編集者の末井昭(すえい あきら)さんと再婚。
結婚と不倫、破局のいきさつは、神蔵さんの著作『たまもの』に記されています。
神蔵さんが家を出る際に坪内さんは、「美子ちゃんはアーティストなんだから、好きにするといい」と理解してくれたそうです。
坪内さんもまた、当時新聞記者だった佐久間文子さんと交際し、再婚します。
ようやく家庭人として落ち着いた坪内さん。
ケンカの絶えない夫婦生活だったそうですが、佐久間さんは性根の優しい夫を最後まで愛し続けました。
夫の死後、20年以上に及ぶ夫婦生活をつづった『ツボちゃんの話:夫・坪内祐三』を刊行。
【5/26発売予定】『ツボちゃんの話: 夫・坪内祐三』佐久間文子(新潮社)「ぼくが死んだらさびしいよ」類まれな同時代史の書き手が急逝して一年半――。妻が語る二十五年間の記憶。「怒りっぽくて優しく、強情で気弱で、面倒だけど面白い」夫との多事多難な日々が鮮やかに蘇る。https://t.co/DQDaRBVeLV pic.twitter.com/lPWPUw8JIk
— 河村書店 (@consaba) May 18, 2021
おそらく夫との日々を懐かしみながら、喪失感を癒すことで、前向きに生活しているのでしょう。
坪内祐三と坪内逍遥は家族?
坪内さんと、明治の文豪・坪内逍遥が家族関係にあると考える人は多いようです。
坪内祐三氏は坪内逍遥氏の養子
と何かで読んだ記憶があるが
あまりに昔
まさか夢…とか
そんな夢みる必要ないし— confi (@confinue) January 15, 2020
しかし実際には、両者につながりはありませんでした。
ただ逍遥の本名が「坪内雄蔵(つぼうち ゆうぞう)」であり、2人の名前は同じ読み方であることがわかりました。
偶然の一致ですが、名前が同じで仕事も同じ文筆業のため、2人が血縁関係にあると考えてしまうのは当然ですね。
坪内さんの実際の家族は、ダイヤモンド社元社長・坪内嘉雄さんが父親、英文学者の織田正信さんが大叔父弟でした。
さらに曾祖叔父は民俗学者の柳田國男です。
一度、「猫目」と云う文壇バーでお見かけしたことのある、評論家の坪内祐三氏の曾祖叔父は柳田國男である。これも、柳田國男ではなく、坪内逍遥の子孫かと、勘違いされる事が多いような気がする。
— ギロチン・今年で50歳 (@kubotakashi1313) June 3, 2015
また母方の親戚に十代目・市川團十郎がいたそうです。
いずれにしても坪内家は、たぐいまれなる名家だったことがわかりましたね。
坪内祐三の経歴まとめ
坪内さんは、ダイヤモンド社社長や日経連の専務理事も務めた、坪内嘉雄さんの息子として生まれます。
早稲田大学に在学中から、ミニコミ誌「マイルストーン」に参加。
ノンフィクションライターの一志治夫さんは、大学の先輩でした。
就職活動では文藝春秋をはじめ、有名企業を多数受けるものの失敗。
大学院に進学し、英文学を学んだのち、約1年半は無職でした。
1987年、父のコネで都市出版に採用され、雑誌「東京人」の編集者となります。
しかし3年で辞め、1991年から雑誌「未来」で『変死するアメリカ作家』の連載を開始。
1993年からは大学の非常勤講師も務めながら、編集者や文筆家として活動しました。
1997年には初の単著『ストリートワイズ』を出版。
2008年以降はNHKやBS放送などで、テレビ出演をこなすようになりました。
また映画『酒中日記』にも出演し、マルチタレント並みに知名度を上げていくのです。
彼が多方面で活躍できたのは、就職の際に親のコネを頼ってしまったことへの悔しさが、原動力になっていたためかもしれません。
「親の七光り」と呼ばれないよう、一心不乱に働き続けていた印象があります。
結果的に休息を取る余裕もなく、死期を早めてしまったとすれば、日本の出版界にとって大きな損失だったといえるでしょう。
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