淡谷のり子の娘は秋元順子?家族と結婚した夫、晩年の活動と死因について

日本のシャンソン歌手第1号であり、『別れのブルース』『雨のブルース』などのヒット曲で「ブルースの女王」とも称された淡谷のり子(あわやのりこ)さん。

淡谷さんには娘が一人いますが、娘の父親は元夫の和田肇さんではないことがわかっています。

「淡谷のり子の娘は秋元順子」という噂や家族のこと、また和田肇さんとの結婚についてみていきます。

あわせて晩年のようすや死因についてもまとめました。

淡谷のり子のプロフィール

愛称:ブルースの女王

本名:淡谷のり子

生年月日:1907年8月12日

死没:1999年9月22日

身長:150cm

出身地:青森県青森市

最終学歴:東洋音楽学校ピアノ科(現在の東京音楽大学)

淡谷のり子の自宅。若い頃が美人&美空ひばりとの不仲説。特攻隊慰問時にアイシャドウで叱責

淡谷のり子の娘は秋元順子?

芸能功労者として紫綬褒章や勲四等宝冠章を受章し、辛口の発言でも知られた淡谷のり子さん。

ジャズピアニストの和田肇さんと離婚したあとは生涯独身でした。

和田さんとの間に子供はいませんが、他の男性との間に一人娘が誕生しています。


この娘が歌手の秋元順子さんで、父親はディック・ミネさんという噂がネット上に飛び交っていますね。

淡谷さんと秋元さんの顔立ちがどことなく似ているせいか、二人は母娘と信じて疑わない人もいるようです。

淡谷さんは瀬戸内寂聴さんとの対談で、恋愛観や娘の父親について語ったことがありました。

その話によると、男性を選ぶ基準は中身より容貌。

美しい人を眺めていると心がなごむので、外見が美しければそれでいい、とまで言いきっています。

娘の父親は本気で好きになった相手だったそうですが、彼は娘ができたことも知らずに中国で亡くなったとのこと。

淡谷さんは娘を母に育ててもらい、歌手活動を続けました。

トレードマークの厚化粧は、近所の子供たちには怖がられたようですが、娘だけは「おかあちゃま、きれいね!」と言ってくれたそうです。

淡谷のり子さんが和田肇さんと結婚したのは1938年で、この時は30歳か31歳。

娘を出産したのは、これより前の出来事かもしれません。

仮に秋元順子さんが娘だとすると、誕生した1947年6月21日の時点で、淡谷さんは39歳。

出産が不可能な年齢ではありません。

ですが、秋元さんの父親は紳士服の仕立てをしていた一般人とのことなので、ディック・ミネさんの可能性はかぎりなく低いでしょう。

ディック・ミネさんの名前が浮上したのは、淡谷さんとデュエット曲『モダンエイジ』を発表し、「合計150歳のデュエット」と話題になったことや、紅白歌合戦で複数回対戦相手になったこと、またディック・ミネさんが天下のプレイボーイとして知られ、結婚・離婚を繰り返して10人の子供をもうけたことなどが理由と思われます。

こうしたことを考えると、娘は秋元順子さんという噂は信憑性が低そうです。

淡谷のり子の家族&結婚した和田肇について

淡谷のり子さんは青森の豪商・大五阿波屋の二人姉妹の長女として生まれました。

しかし青森の大火で生家は没落。

その後、離婚した母と妹とともに上京します。

生涯で一度の結婚のお相手となった和田肇さんは山口県出身で、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒業。

淡谷さんも同校のピアノ科に入学していますが、のちに声楽科に編入しています。

和田さんは映画館楽士を経て、オーケストラやバンドでジャズピアニストとして活躍。


淡谷のり子さんの伴奏を務めたことが縁となって1938年に結婚しました。

正式に入籍していたわけではなく、事実婚だったという情報もありますが、真相はわかりません。

また離婚の時期に関しても、翌年、あるいは3年後とまちまちです。

離婚後は独身を通していた淡谷のり子さん。

晩年の不自由な暮らしを支えていたのは、同居する2歳年下の妹・とし子さんでした。

この時の淡谷さんの家族は、とし子さんと愛娘だけだったようです。

淡谷のり子は晩年まで長く活動、死因は老衰

80歳を迎えた1987年に全国80ケ所コンサートを行い、また85歳の時は現役最高齢で『揺り椅子』をリリースするなど、晩年まで精力的に活動を続けてきた淡谷さん。

しかし盟友ともいえる藤山一郎さん、服部良一さんがこの世を去った1993年、自身も脳梗塞で倒れてしまいます。

軽度ではあったものの、手足の麻痺などの後遺症が残り、体調不良を理由に休養宣言。

その後は身体が弱って、ほとんど寝たきりになっていたそうです。

1996年、後輩歌手たちよって開かれた米寿記念コンサートに久々に登場。

このコンサートのフィナーレで全員が合唱するなか、口ずさんだ『聞かせてよ愛の言葉を』が最後の歌唱になりました。

公の場に最後に姿をみせたのは、1998年10月の青森市名誉市民の推戴式で、この時は車椅子姿でした。

そして1999年9月22日、老衰のため、その生涯に幕を閉じました。


洋楽を歌うことやドレスを着ることが御法度だった戦時中、「これが私の戦闘服だ」と啖呵をきって、多くの慰問活動を行った淡谷のり子さん。

晩年まで続けた地道な活動も、歌手としての矜持のあらわれだったのでしょう。

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