王貞治の筋肉は努力の結晶。実家と誇りの母。早稲田実業高校では投手で活躍

王 貞治(おう さだはる)さんは数々の成績で記録にも記憶にも残る名選手ですが、偉業を成し遂げた肉体(筋肉)はたゆみない努力で作り上げられたそうです。

今回は王さんの筋肉や実家のラーメン屋、母親や高校時代について見ていきましょう。

王貞治のプロフィール

本名:王 貞治 (おう さだはる)

出身地:東京府東京市本所区 (現・東京都墨田区)

生年月日:1940年5月20日

投球・打席:左投左打

ポジション:一塁手

所属球団(選手歴):読売ジャイアンツ (1959~1980)

王貞治の筋肉は日々の努力で身についた

王貞治さんはプロ野球で868本塁打を放ったという世界的なレジェンドですが、数々の伝説を生みだした肉体は日々の努力によって作り上げられたそうです。


鍛え上げられた鋼のような筋肉は練習を撮影した動画にもしっかりと記録されていました。

いわゆる「マッチョ」や「ムキムキ」という大柄な筋肉ではなく、必要なところに必要な分だけしっかりと身についているという実用的な筋肉と言えるでしょう。

今の時代は最新機器を利用したウエイトトレーニングやサプリメントなどによって作られることが多いですが、王さんの場合は素振りなどの練習によって身につけた筋肉でした。

王さんによればバットを振ることでバッティングに必要な筋肉が自然と身につき、疲れることで自ずから下半身を使った理想的なバッティングフォームになると語っています。

この理論は王さんだけでなく落合博満さんや金田正一さんなども実践しており、昭和のレジェンドたちの中で熱心に筋力トレーニングをした人はあまり居ません。

確かにトレーニングだけをしてプロレスラーのような多くの筋肉を身につけたとしても、体の重さによって動きが鈍くなったり、膝に負担が掛かるという見方もできるでしょう。

一概には言えませんが、新しいものが全て良いというわけでは無いのかもしれませんね。

王貞治の実家は「五十番」という中華料理店

アスリートや有名人の実家や家業が話題になることが多いですが、王貞治さんの実家は東京都墨田区で「五十番」という中華料理店を経営していたことで有名です。

父親の仕福(しふく)さんは中国浙江省出身の中国人ですが、当時の政治状況などもあって中華人民共和国籍ではなく中華民国(台湾)の国籍という複雑な事情がありました。

実家の中華料理店は仕福さんが開業したものではなく引き継いだ店であり、1965年に店舗経営から引退した際に妻(登美さん)の従兄弟に引き継がれているそうです。

残念ながら元々の「五十番」は既に閉店してしまったそうですが、仕福さん譲りの特製ラーメンは従兄弟が経営する洋食店「50BAN」で味わえるとのことでした。

当時の味を知っている人は少なくなりつつありますが、引き継がれたラーメンを食べることで王さん一家の頑張りぶりに思いを馳せるのも良いかもしれませんね。

王貞治の母親は息子として誇りだった

王貞治さんの母親は日本人の當住 登美(とうずみ とみ)さんといい、夫の王仕福さんと一緒に中華料理店「五十番」を切り盛りした働き者だったそうです。

略歴としては1901年9月21日に富山県富山市で生まれ、1928年に仕福さんと結婚。

母親なので野球は教えていませんが、双子の姉・広子さんが早くに亡くなったことを「貞治の体の悪いところを持って行ってくれた」と表現して人としての道を教えてくれました。

また、現役時代には”都会だと聞けないだろうから”と鈴虫を渡し、その音を聞いて精神を集中させた貞治さんが世界新記録となる756号を放ったのは有名なエピソードです。

登美さんは2010年8月16日に肺炎のため108歳で亡くなり、訃報に接した貞治さんは昔のことを思い出しながら「(母親は)女性のひとつの理想像」とコメントをしていました。

貞治さんが女性について触れるのは非常に珍しいことですが、やはり「世界の王」と言えども母親を前にすると”普通の子供”であることに変わりないのでしょうね。

早稲田実業高校でノーヒットノーランを達成

王貞治さんと聞けば「ホームラン」を連想してしまいますが、意外にも早稲田実業高校時代には甲子園でノーヒットノーランを達成したほどの名投手だったのです。

入部して僅か1ヶ月後には先輩を押しのけて東京都予選の決勝戦で先発登板し、1956年の「春のセンバツ」に出場した日大三高を完封するなど抜群のマウンド度胸を発揮しました。

1年目の夏には早くも甲子園のマウンドに立ちましたが、2回戦に先発して1-8で敗退。

2度目の甲子園出場となった「春のセンバツ」(1957年)では3試合連続で完封勝ちをおさめ、高知商業との決勝戦も5-3の完投勝ちをして関東に初となる”選抜優勝旗”を持ち帰りました。

同年夏の甲子園にも2年連続で出場し、2回戦の寝屋川高校戦では延長11回の熱戦を”ノーヒットノーラン”で制するという離れ技を成し遂げて注目を集めたそうです。

ちなみに、延長戦でのノーヒットノーランは王さんしか達成していないので、投手としても日本の球史に名を残しているのは「さすが世界の王」と言ったところでしょうか。

ただ、王さんによると投手としてのピークは高校2年の時だったらしく、それ以降は”どこかおかしくなっていった”という本人にしか分からない独特の分析をしています。

3年生になると主に打者として活躍するようになり、春のセンバツは準々決勝で敗退、夏の大会は東京都予選決勝で明治高校に逆転サヨナラ負けをして高校野球を終えました。


1959年に読売ジャイアンツへ投手として入団しましたが、1年目のキャンプでプロのピッチングを目の当たりにして野手に転向するという挫折を味わっています。

しかし、そんな王さんが野手として868本塁打を記録するほどの大打者になったことを見ると、人間の可能性はどこに秘められているのか分からないと言わざるを得ないですね。

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