吉田茂の側近として活躍し、ダンディズムの象徴的存在として知られた白洲次郎(しらす じろう)。
今回は次郎と麻生太郎元首相の知られざる関係に迫ります。
またウイスキーへの愛、高い英語力でマッカーサーに主張を伝えたエピソード、ゴルフ好きの一面を紹介します。
白洲次郎のプロフィール
本名:白洲次郎
生年月日:1902年2月17日
死没:1985年11月28日
身長:185cm
出身地:兵庫県芦屋市
最終学歴:ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
白洲次郎は麻生太郎の祖父・吉田茂の側近
白州次郎は吉田茂の側近として、占領下の日本で活躍しました。
さらに吉田の孫である麻生太郎さんの誕生に、重要な役割を果たしています。
2人が親しく交流をし始めたのは、1936年頃とされています。
駐英大使だった吉田が渡英した際、貿易会社の重役だった次郎は、吉田が駐在していた日本大使館に宿泊していました。
意気投合した2人は、大使館地下でビリヤードに興じるなど、仲良く交流し始めます。
お互いに言葉遣いが荒かったため、「バカ野郎」と激しい言葉を掛け合いつつ、気兼ねなく何でも言える仲だったそうです。
吉田夫人である雪子さんも、次郎を気に入っていました。
次郎は彼女の依頼で、夫婦の末娘である和子さんの結婚相手を探すことになります。
吉田夫婦にとって次郎は、単に親しい友人ではなく、信頼できる相談相手だったのです。
こうして次郎は和子さんに、麻生太賀吉さんという男性を引き合わせ、結婚させています。
麻生夫婦の息子で、吉田の孫にあたるのが、後に祖父と同じく首相となる麻生太郎さんでした。
ちなみに白洲次郎は麻生太郎の母方の祖父にあたる吉田茂の首相時代に貿易庁長官を務めてた。麻生太郎からしたら「爺ちゃんのかっこいい仕事仲間のおっちゃん」くらいの感覚だったのかね。
— なかめのくまちゃん@Querie.me開発中 (@wgextra) July 19, 2020
麻生さんにとって次郎は、両親をつないでくれた恩人的存在なのです。
次郎がいなければ後の麻生太郎首相は、この世に誕生していなかったはず。
次郎は吉田一族に対して、側近以上の役割を果たしていたのですね。
白洲次郎の高い英語力
イギリス留学前から語学に堪能で、流暢な英語を話していた次郎。
自宅で神戸女学院の外国人教師から個人レッスンを受けていたそうです。
ただ学校でも自宅でも授業態度は悪く、授業中に本を読んで叱られ、結果的に罰としてイギリスへ送られたとされています。
授業中に読んでいたのも英語の本だったそうで、授業には退屈していたものの、英語力はすでに身に付いていたことが分かりますね。
ケンブリッジ大学クレア・カレッジで西欧近世史を専攻し始めると、英語力に磨きをかけながら、英国紳士のマナーも習得。
父・文平の会社が倒産したことで帰国後、英字新聞記者として働き始めました。
しかし記者だけでは食べられず、イギリスの貿易会社へ転職します。
日本食糧工業の取締役となってからは海外で過ごすようになり、日本語より英語で話す時間が多くなったようです。
マッカーサーに堂々と意見を主張
次郎は第二次世界大戦が終わると、外務大臣となった吉田の命令で、終戦連絡事務局参与、翌年には次長に就任します。
こうしてGHQの交渉役として活躍し始めるのです。
敗戦によってアメリカの言いなりになる政治家が多い中、次郎は「自分たちは奴隷ではない」という信念に基づいて行動しました。
このとき武器になったのが、留学で身に付けたイギリス英語です。
紳士的で堂々とした態度で、最高司令官のダグラス・マッカーサーとも対等に渡り合いました。
天皇から贈られたクリスマスプレゼントを次郎が届けたときのこと。
マッカーサーはプレゼントを「その辺に置いておけ」と指示しました。
次郎は「陛下からのプレゼントをその辺に置けとは何事か」と激昂し、プレゼントを持ち帰ろうとしたそうです。
さすがのマッカーサーも慌ててしまったというのは有名なエピソード。
また1951年9月、サンフランシスコ講和条約が締結され、首相となった吉田が演説をすることになったときのことです。
演説の原稿が、GHQを称賛する言葉で埋め尽くされていました。
しかも英語で書かれていたことに、次郎は激怒します。
「講和会議は戦勝国の代表と同等の扱いで出席できる。相手国の言葉で書くバカがどこにいる」と主張したのです。
原稿は急きょ、30メートルもの日本語の巻物となりました。
日本史で5本の指に入る格好いい人、白洲次郎
天皇陛下からの贈り物を「その辺に置いとけ」と言ったマッカーサーを怒鳴りつけたり
サンフランシスコ講和会議で英語で書かれた原稿を日本語に書き直させたり
日本で最初にジーパンを履いたり
70歳過ぎてからポルシェ乗り回したりとクソかっけえ偉人 pic.twitter.com/fzPkqnvL8z
— ❄ (@Young_D_Jam) March 15, 2021
英語力を存分に活かして、GHQとも堂々と渡り合った次郎。
GHQから「従順ならざる唯一の日本人」と評された男の生き方には、男性でも惚れてしまいますよね。
白洲次郎のウイスキー愛
次郎はウイスキーをこよなく愛したことで有名です。
吉田もウイスキーを愛していましたが、次郎の情熱の方が勝っていたとされています。
ケンブリッジ大学留学中に、本場のウイスキーを楽しんでいた次郎。
帰国後も友人のロバート・セシル・ビング (後のストラットフォード伯爵)から、ウイスキーを樽で送ってもらっていました。
愛飲したのは「ザ・マッカラン」。
帝国ホテルのバーに行くと、今も「白洲次郎」の名前が書かれたマッカランがキープされている。
— y,yamanaka (@agencyboss) December 23, 2012
友人から送ってもらったマッカランだけでなく、市販のものも愛飲したそうです。
古いマッカランのボトルには「輸入者 白洲次郎」と記されていたとのこと。
まだ輸入代理店がない時代に、個人で輸入していたことが分かります。
吉田も舌を巻くほどのウイスキー愛がうかがえますね。
白洲次郎は軽井沢ゴルフ俱楽部の理事長
次郎はゴルフをたしなんだことで知られ、名門「軽井沢ゴルフ倶楽部」では理事長を務めました。
ゴルフに対するマナーに厳しく、数々の逸話を残しています。
白洲次郎といえばゴルフでも有名な人で、「新軽」こと軽井沢ゴルフ倶楽部で彼は理事長を務めていた。マナーに死ぬほどうるさく、マナーに関するトラブルの逸話は枚挙にいとまがない。ある知人は、新軽でプレー中、メンバーが具合が悪くなって帰ってしまってゲストだけでプレーしていたら怒られた。
— ナイト (@night_in_tunisi) April 13, 2011
中曽根康弘首相がプレイした際は、取り巻きのSPをゴルフ場外へ締め出しました。
また紹介状を持たずに参加しようとした田中角栄首相の秘書に対して、
「会員のための倶楽部であり、紹介がないならプレイは許されない」
と言い放つなど、伝説的エピソードには事欠きません。
ゆったりとプレイを楽しむことは大嫌いでした。
「Play Fast!(さっさと打て)」という彼の言葉は、今では俱楽部のTシャツにプリントされている名文句となりました。
すばやく、スマートにプレイする次郎の姿は、気迫に満ちていてかっこ良かったことでしょう。
ダンディな次郎の存在は、永遠の憧れとして歴史上で輝き続けるに違いありませんね。
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