GHQ占領下の日本で、吉田茂の側近として活躍し、貿易庁長官も務めた白洲次郎(しらす じろう)。
洗練されたファッションセンスで、ダンディズムの象徴的存在として知られています。
初めてジーンズをはいた日本人と言われてきましたが、愛用したブランドはあったのでしょうか。
また愛用スーツのブランドもチェックしつつ、愛車のポルシェとベントレーの情報を紹介します。
白洲次郎のプロフィール
本名:白洲次郎
生年月日:1902年2月17日
死没:1985年11月28日
身長:185cm
出身地:兵庫県芦屋市
最終学歴:ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
白洲次郎の洗練されたファッション。ジーンズはリーバイス
洗練されたファッションで知られた次郎。
日本人で初めてジーパンを履いたとされてる白洲次郎氏。白Tジーンズのお手本のような絶妙なサイジング、バランス感‼︎
ロンドンのサヴィルロウのスリーピーススーツやツイードジャケット、本物の洋装を愛してきたからこそなせるのだろうか👀かっこいい pic.twitter.com/7tfCEtWoqm— 経年変化委員会 (@J_and_LS) June 20, 2020
ただ「初めてジーンズをはいた日本人」という説は、厳密には間違いであり、当時からジーンズをはく人はいました。
不良の若者たちが、アメリカの俳優マーロン・ブランドやジェームズ・ディーンなどのファッションに憧れ、好んではいていたのです。
次郎はイギリスでマナーを学んだ紳士ですから、「初めてジーンズをはいた日本人紳士」とは言えそうですね。
1950年、次郎は吉田茂首相の特使に任命され、池田勇人大蔵大臣と共に渡米しています。
サンフランシスコ講和会議の打ち合わせをするためでした。
要人たちはいずれも黒のスリーピース・スーツにソフト帽をかぶり、小紋柄のネクタイを締めていました。
そんな中、次郎は飛行機内でスーツを脱ぎ始め、Tシャツとジーンズに着替えたのです。
おそらくアメリカに対して、食って掛かるくらいの気概を持って、ジーンズをはいたのではないでしょうか。
スーツ姿でアメリカに恐縮するような男ではありませんからね。
愛用していたジーンズはサンフランシスコ「リーバイ・ストラウス」、通称リーバイスです。
次郎は1930年にサンフランシスコを旅行した際、ちょうど流行し始めていたリーバイスに魅了されたのでしょう。
以来リーバイスを愛用し、飛行機内でもアメリカの権威に屈しない気概を見せるため、着用したのかもしれませんね。
白洲次郎の愛用スーツはヘンリー・プール
高級紳士服店が立ち並ぶイギリスの通り「サヴィル・ロウ」。
次郎が愛用したスーツブランド「ヘンリー・プール」も、「サヴィル・ロウ」にある名門テイラーです。
1806年の創業以来、宮廷服も用意してきた、イギリスを代表する老舗ですね。
ウィンストン・チャーチルも愛したブランドで、次郎もオーダーメイドでスーツを作ってもらっていたそうです。
例えば故白洲次郎氏のスーツは全て英国サヴィルロウの老舗ヘンリー・プールのフルオーダー。当時の価格20万円は下回らないでしょう。
今の価格で35万円のスーツなんて下手もいい方ですがね。庶民感覚すぎる。 pic.twitter.com/d9mM7lbXAP
— 思兼 (@thousandarounds) April 23, 2018
ファッションにこだわった次郎は、上質なスーツを手に入れるため、必ずイギリススタイルのビスポークを採用していました。
ビスポークはテイラー側と話し合いながら、的確な商品を作り上げるスタイルですね。
単に注文するのではなく、自ら理想のスーツを作り上げるつもりでテイラーと向き合っていたのです。
生前「必ず所属クラブか、出身校のスクールタイもしくは絹のネクタイをしろ。ニットタイは合わせるな」と語っていました。
自分自身だけでなく、周囲に対しても洗練されたファッションを求め続けていたのですね。
その姿勢は生涯変わらず、80代にして、一流デザイナーのイッセイ・ミヤケさんのファッションモデルも務めました。
まさに日本を代表するファッションリーダーと呼べるジェントルマンだったのです。
白洲次郎が愛したポルシェ911
ルイ・ヴィトンのスーツケースとヘンリー・プールのスーツを愛した次郎。
ダンディズムの象徴は、車も非常に愛し、こだわりが強かったことで知られています。
休日にレースを楽しむ車愛好家だった彼が、晩年に運転したのは「ポルシェ911」でした。
70代になってからも、ゴルフ場にポルシェでやって来て、注目されていたそうです。
しかし次郎は、あるとき愛車の「ポルシェ911」を、トヨタに寄贈してしまいました。
「車づくりの参考」にしてもらうため、優れた性能の愛車をトヨタに譲ったのです。
ソアラといえば白洲次郎氏だと思います。初代ソアラの苦情をトヨタに手紙で送り、自身の愛車であるポルシェ・911を「これを手本にしなさい。」と持っていった話がすきです。 pic.twitter.com/vm9qsKZC9k
— TURO (@A31RB20) April 7, 2017
こうしてトヨタは次郎の愛車を手本に、「2代目ソアラ」を完成させました。
浅見光彦記念館の敷地内にある2代目ソアラ〜 pic.twitter.com/C6hgaBmx7f
— セダン好きなミツヒコ (@ZCkItu8omnJDl0I) November 13, 2018
しかし次郎は「2代目ソアラ」の完成を待たずに死去。
当時のトヨタ社長は、次郎の妻・正子と共にソアラに乗って墓前に赴き、完成を報告しました。
自国の車の性能を高めるため、愛車を手放すほど豪胆に生きた次郎の生涯に、惚れ惚れしてしまいますね。
白洲次郎のベントレーは鑑賞可能
次郎は1920年代、イギリス留学中に、現地の高級車「ベントレー」を運転していました。
愛用していた「ベントレー 3リッター」は、イギリスのベントレーファンが保存していたため、現存しています。
埼玉県加須市にある「ワク井ミュージアム(ワクイミュージアム/WAKUI MUSEUM))」は、ロールスロイスとベントレーをメインとする博物館です。
世界最古のベントレー「3リッター D.H.C.by Gairn」の他、次郎の「ベントレー 3リッター」も展示されています。
白洲次郎氏が乗っていたというベントレー\(//∇//)\
いやぁマヂで贅沢な人っすなぁ#wakuimuseum#ベントレー pic.twitter.com/xuknmoU36y
— ぼーちゃんDEATH♪ (@ParadigmShift70) April 8, 2021
1,000平方メートルの敷地内に、展示ドームや芝生スペースもある同ミュージアム。
展示品は土日に鑑賞できるため、車好きの人はぜひ休日を利用して、次郎の息吹を感じに行ってみてください。
至高のダンディズムを体現した白洲次郎。
愛用品の数々から、大国に屈さず、誇り高く生きた男の生涯をうかがい知れますね。
白洲次郎の家・武相荘は鶴川の別荘。芦屋の実家と伊丹の白洲屋敷
白洲次郎と麻生太郎の関係。英語でマッカーサーに主張。ウイスキー愛&ゴルフ好き
白洲次郎の死因は肺炎。晩年と遺言の戒名不要について。吃音でも英語はペラペラ
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