優れたリーダーシップを発揮し、戦後の政界で活躍した元首相の吉田茂(よしだ しげる)。
大御所政治家にふさわしく、死後は国葬が行われました。
貫禄ある政治家のイメージが強いですが、出身高校と出身大学をチェックし、若い頃から大物らしい人物だったのか確認しましょう。
昭和史に名前を残す政治家の経歴をまとめていきます。
吉田茂のプロフィール
本名:吉田茂
生年月日:1878年9月22日
死没:1967年10月20日
身長:推定160cm前後
出身地:東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)
最終学歴:東京帝国大学法科大学政治科卒業(現在の東京大学)
吉田茂の死後、戦後初の国葬が営まれる
1967年10月20日、吉田は神奈川県の大磯にある自宅で89年の生涯を終えました。
旧吉田茂邸(大磯町)
梅が見頃になってきました♪
富士山も見えますよ~ pic.twitter.com/OkJKMri62V
— ひらまささん。 (@hiramasa1118) February 10, 2021
8月に患った心筋梗塞により、心臓が弱っていたようです。
突然の死だったため、身内は誰も看取ることができませんでした。
前日に娘の和子さんに対して言った、「富士山を見たい」が、記録されている最後の言葉となりました。
その日は1日中、飽きることなく、快晴の空の下に見える富士山を眺めていたそうです。
亡くなったときも穏やかで、機嫌が良さそうな表情だったといいます。
激動の時代に政治家として活躍し、果たすべき役割を全うしたことに、満足していたのでしょう。
10月31日、吉田の死を悼み、戦後初の国葬が営まれ、推定3万5,000人の人々が参列しました。
【Hickeyの今日は何の日?】
今日(10/31)は
【吉田茂の国葬がおこなわれた日】🙏昭和42年10月31日
吉田茂・元総理大臣の国葬が
日本武道館で行われたんだ‥‥🙏
戦後唯一の国葬なんだよ☝🏻😊#学校じゃ教えてくれない大事なこと pic.twitter.com/xz26CbQkXr
— Hickey☆Blog 🇯🇵 (@HickeyBlog) October 31, 2017
日本武道館で行われた国葬には、一般の弔問客が長蛇の列を作ったことが記録されています。
自衛隊の儀仗兵は捧げ銃で遺骨を迎えました。
多くの国民に慕われ、絶大な影響力を誇った大人物だったことが、国葬の様子からうかがい知れますね。
正則高校から学習院高等科へ進学
吉田は私立正則高校を卒業しています。
東京都港区にある高校で、吉田が通っていた当時は旧制正則尋常中学でした。
かつては現在の高校が中学、大学が高校という扱いだったのです。
そのため厳密には、正則高校を卒業後に進学した学校が、現在の高校にあたります。
吉田は正則高校を卒業後、当時は高校扱いの慶応義塾および東京物理学校(現在の東京理科大学)に進学しました。
両校とも中退すると、学習院高等学科(現在の学習院大学)に進学。
吉田茂(旧制日本中学(現日本学園高等学校)→高等商業学校(現一橋大学)→旧制正則尋常中学(現正則高校)→東京物理学校(現東京理科大学)→学習院高等学科(現学習院大学)→学習院大学科(現学習院大学)→ 東京帝国大学法科大学政治科)とかいう、仮面浪人界のレジェンド・オブ・レジェンド
— 北極 (@Nordpol2017) June 27, 2020
同校は無事に卒業し、現在の大学にあたる学習院大学科へ進んでいます。
吉田茂は東京大学を卒業
学習院大学科に在学していた頃、吉田は外交官を目指す決意をしました。
しかし大学科が閉鎖されてしまい、代わりに無試験で別の大学へ進学することになります。
それが東京帝国大学法科大学政治科、つまり現在の東京大学でした。
無試験で東京大学に進学するなんて、今の感覚では考えられませんね。
当時は学習院大学科の閉鎖という問題があったため、無試験で特別に転入できたことが分かります。
当時と今とでは、学校制度も入試制度も大きく異なっていたのです。
吉田は1906年に東京帝国大学を卒業し、晴れて外交官と領事官の試験に合格。
外務省入省時には、後に首相を経験し、戦犯として絞首刑となる広田弘毅もいました。
広田は首席で入省するほどの優秀な人材だったそうです。
後に吉田が、優秀な同期の広田をしのぐ活躍を見せることになるとは、誰も予想していなかったことでしょう。
吉田茂の若い頃。首相になるまでの経歴
若い頃の吉田は外交官として、中国大陸やヨーロッパ諸国で活動しました。
ときには軍部よりも強硬な主張をすることがあり、早い段階で大物らしい堂々とした態度を身に付けていたようです。
20年間を外交官として過ごした後、1928年からは田中義一と浜口雄幸両内閣で外務次官となります。
イタリア・イギリス大使を歴任後、外務省を退きました。
太平洋戦争中は戦争を早期に終わらせるため、大磯の自宅に要人を招き、和平工作のために議論を交わしていたそうです。
しかし軍部から和平工作を咎められ、1945年に逮捕されてしまいます。
40日間ほどの拘留期間は、生涯忘れられない屈辱的な日々になったのでしょう。
戦後はこれまで活躍していた政治家たちが、いずれも戦犯として逮捕されていきました。
代わりに吉田が晴れて表舞台に登場し、東久邇宮稔彦王および幣原喜重郎両内閣の外務大臣となります。
1946年5月、ついに第1次吉田茂内閣が成立し、第5次まで内閣総理大臣を務めました。
戦後初の長期政権を率いて、サンフランシスコ講和条約や日米安全保障条約の調印などを行っています。
1954年に造船疑獄をきっかけに信頼を失っていった結果、ついに総理大臣を辞任。
吉田茂首相。
傲岸にて不遜、ワンマン、その姿勢が叩かれ、後半は国民の支持率は低かった。
共産圏を無視して単独講和を強引に推し進め、批判した東大総長を「曲学阿世の徒」と罵ったり、カメラマンにコップの水をかけたりと、#リベラルマスコミからは評判が悪かった。#史上最低最悪総理決定戦 pic.twitter.com/dXToNPNeAv— キルゴアさん (@KilkilGoregore) May 26, 2020
2023年現在も、5度にわたって総理大臣に任命された、唯一の首相として名を刻んでいます。
首相を辞任してからも、政界で影響力を持ち続けた吉田。
大胆かつ優れた外交手腕を発揮し、今なおトップ政治家としての名前を輝かせ続けています。
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