吉田茂の功績。マッカーサーと交渉、英語力は低い説。側近・白洲次郎の貢献

優れたリーダーシップを発揮し、戦後日本を立て直した元内閣総理大臣の吉田茂(よしだ しげる)。

第5次までの長期政権を率いて、さまざまな功績を残しました。

具体的な功績をまとめ、戦後の日本を占領したGHQの最高司令官・マッカーサーとの交渉について見ていきましょう。

また英語力が低かったため、側近・白洲次郎が吉田を補佐していたという情報を確認します。

吉田茂のプロフィール

本名:吉田茂

生年月日:1878年9月22日

死没:1967年10月20日

身長:非公表

出身地:東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)

最終学歴:東京帝国大学法科大学政治科(現在の東京大学)

吉田茂の功績

1945年に第2次世界大戦が終結し、敗戦した日本はアメリカの占領下に置かれました。

日本はアメリカをはじめとする連合国の要求に従いつつ、隷属しないためにも対等な立場で条件交渉をする必要がありました。

そこで高い交渉術で知られた、元外交官の吉田が外務大臣に就任します。

翌1946年には、首相となり第1次吉田内閣が発足するのです。


吉田は第5次までの長期政権を率い、その間に大きく2つの功績を残しました。

最初の功績は第1次内閣における、日本国憲法公布です。

連合国軍総司令部・通称「GHQ」の最高司令官であるダグラス・マッカーサーとの交渉にあたり、日本国憲法を発布します。

軍事力を否定する民主国家という、今の日本の礎を形作った憲法は、吉田内閣の時代から効力を持ったのです。

日本がアメリカの言いなりにならないよう、吉田がマッカーサーと交渉にあたったおかげで、今の平等な日本が実現しました。

2つ目の大きな功績は、サンフランシスコ平和条約の調印です。

1951年に吉田はサンフランシスコ講和会議へ出席し、平和条約および日米安全保障条約を締結しました。

この条約により、占領下にあった日本の独立が認められます。

今なお米軍基地の問題は残っているものの、日本がアメリカの奴隷ではなく、自由な国家として認められたのは大きな前進でした。

吉田茂はマッカーサーと対等に交渉

日本が奴隷国家にならずに済んだのは、吉田が常に堂々とマッカーサーとの交渉に臨んでいたことが大きかったとされています。

気難しいマッカーサーの心を開き、友情をはぐくむことに成功したのです。

また吉田はふくよかな身体つきと、指に挟んだ葉巻がトレードマークでした。

元イギリス首相のウィンストン・チャーチルは同じ特徴の持ち主です。

そのため吉田は「和製チャーチル」として外国人からも親しまれやすかったのですね。

ただし彼がアメリカと対等に渡り合えた背景には、ほかに大きな存在がありました。

吉田茂の英語力は低かったという説が有力

吉田は外交官経験者でしたが、実は英語力が低かったとされています。

マッカーサーと対等に渡り合うには、英語力の高い人物にサポートしてもらう必要がありました。

その人物について紹介する前に、本当に吉田の英語力が低かったのか少し考察していきます。

吉田の経歴を確認すると、11歳の頃に私立学校「耕余義塾(こうよぎじゅく)」へ入学し、英語を学んでいました。

そのため幼少期から、基本的な英語スキルは身に付けていたはずです。

しかし吉田と親しく、駐日大使を務めたジョセフ・グルーが残した「グルー文書」には、吉田の英語力の低さが記されています。

同文書には「吉田の英語力は劣っている」「何を言いたいのかわからないこともある」と記録されていました。

また各国で駐在大使を務めた三宅喜次郎は「吉田は会話はできるが、演説となると貧弱」と証言しています。

つまり吉田は英語で日常会話をできたものの、改まった場所で重要な意見を述べられるほどのスキルはなかったとされているのです。

ただし吉田はイギリスに赴任した経験があるため、イギリス英語での会話については堪能だったと言われてきました。


そのためイギリス英語話者からは英語力を高く評価され、アメリカ英語話者からは低く評価されているのが実情です。

つまり吉田は決して英語力が低かったわけではなく、基本レベルのイギリス英語なら身に付けていたのです。

吉田茂の側近・白洲次郎の貢献

イギリス英語による日常会話が得意だった吉田。

しかしアメリカ人のマッカーサーと渡り合うには、相手の国籍に関係なく通用する高い水準の英語力が不可欠でした。

そこで吉田が白羽の矢を立てたのが、留学と海外勤務経験のあった白洲次郎です。

白洲はケンブリッジ大学でイギリス英語をマスターし、堂々とした態度と紳士的な品格を身に付けていました。

イギリスの貿易会社社員や日本食糧工業の取締役として、海外勤務経験も豊富な人物です。

駐英大使時代の吉田と親しく交流していた縁があったため、外務大臣となった吉田からGHQとの交渉役に抜擢されました。

彼は吉田の側近として、非常に大きな仕事を成し遂げます。

日本の要人の大多数は、戦勝国アメリカの要人に対して、腰の低い態度で接していました。

しかし白洲は巧みなイギリス英語を駆使して、マッカーサーと対等な態度で交渉にあたります。

彼のイギリス英語は吉田と異なりネイティブレベルで、発音も意味も明瞭なため、アメリカの要人にも理解できました。


高い英語力を武器に、日本がアメリカの奴隷でないことをはっきりとアピールしたのです。

白洲はGHQから「従順ならざる唯一の日本人」と評されました。

吉田がGHQの言いなりにならず、日本の独立に貢献できた背景には、白洲という大きな存在があったのです。

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