織田哲郎が天才の理由。兄の死因、若い頃に高知で孤立。発達障害の傾向あり?

90年代、ZARDやWANDSなど人気アーティストに楽曲提供し、ミリオンセラーを量産した織田哲郎(おだてつろう)さん。

この記事では、天才メロディメイカーと呼ばれる理由を考えていきます。

さらに兄の死因をはじめ、若い頃に高知の学校生活になじめず精神的に追い詰められたこと、また発達障害の傾向がある子供だったという告白について取り上げます。

織田哲郎のプロフィール

本名:濱田哲郎(はまだてつろう)

生年月日:1958年(昭和33年)3月11日

身長:176cm

出身地:東京都

最終学歴:明治学院大学社会学部除籍

所属事務所:ティーズコーポレーション

織田哲郎が天才といわれる理由

90年代、小室哲哉さんと肩を並べるヒットメイカーだった織田哲郎さん。

『おどるポンポコリン』『負けないで』『夢見る少女じゃいられない』『世界が終わるまでは…』などのヒット曲があり、これまでのCDシングル総売上げは歴代作曲家ランキング3位。

ご本人より曲のほうが有名になってしまい、提供者は誰かと思って調べると、織田さんだったという経験をする人も多いようですね。


かつて一世を風靡したビーイング系アーティストは、織田さんがビーイングを離れたあとは少なくなってしまいましたが、織田さんはビーイング離脱後も活躍し続けています。

いまだ変わらず天才と評される理由としてまず挙げられるのは、提供曲が高確率でそのアーティストの代表曲になっていることでしょう。

例えばKinKi Kidsの『ボクの背中には羽根がある』は堂本光一さん自身が「ターニングポイントになった曲」と述べており、コンサートでたびたび披露されています。

織田さんがビーイングを離脱したあともネームバリューが衰えないのは、このあたりにも要因があるのかもしれません。

またアニメソングで成功をおさめている点も見逃せないポイントです。

アニソンの爆発的ヒットのきっかけになったのが『おどるポンポコリン』だったのではないかとご本人も述べていますが、確かにその通りではないでしょうか。

国民的アニメの『サザエさん』も『ドラえもん』も主題歌の知名度は高いものの、大ヒット曲という印象はありません。

さらにネット上には「誰もが名曲と思える曲を書ける作曲家」という声が多いですね。

メロディメイカーとしての才能はもとより、そのアーティスト代表曲やミリオンセラーを連発したことは、織田哲郎さんが天才である証拠といえるでしょう。

兄の死因と名曲『いつまでも変わらぬ愛を』

1992年にリリースした自身のシングル『いつまでも変わらぬ愛を』はオリコン1位を獲得し、ミリオンセラーを記録しました。

一般的にはラブソングとして知られる同曲ですが、じつは29歳で他界した兄への鎮魂歌です。

4歳年上の兄は小学生の頃から真面目な秀才で、中学時代の成績はオール5、しかも剣道部の主将。

織田さんにとっては憧れの兄でした。

ところが受験戦争の重圧から精神のバランスを崩してしまい、数年の浪人生活の末に本意ではない大学へ。

この頃には完全に無気力になっており、病院に通院するようになりました。

病院ではうつ病や自律神経失調症などさまざまな診断をされ、そのたびに薬が処方されたそうです。

結局、兄は29歳の若さで亡くなりました。

死因については、心臓発作と織田さんが語っています。

『いつまでも変わらぬ愛を』の「小さな週末の冒険」というフレーズは、幼少の頃、週末に兄と二人で海へでかけた思い出です。

この曲に兄への追慕がこめられていたことを知ると、歌詞を読むだけで織田さんの思いが伝わってくるようです。

どんな気持ちでこの曲を作ったのかを想像するのは簡単ではありませんが、兄の死を受け入れたうえで「自分にできることは何か」を考えた結果なのかもしれません。

織田哲郎、若い頃は高知で孤立

2013年に高知県観光特使に就任した織田哲郎さん。

13歳の時に父の仕事に伴いロンドンへ渡り、15歳で単身帰国したのちは、両親の出身地である高知市で過ごしました。

東京都立大学附属高校に転校するまでは、高知学芸中学・高校で寮生活を送っていたそうです。

英語が話せないロンドン生活でもストレスは感じなかった織田さんですが、高知での学校生活には困惑するばかりでした。

まずクラスメイトが話す土佐弁がまったくわからず、会話に入っていけません。

もうひとつの障害は、寮生やクラスメイトの判別がつきにくかったこと。

ロンドンの学友たちが肌や髪や目の色はもちろん、髪型も異なっていたのに対し、高知の高校ではみな黒髪で男子は丸刈り、女子はおかっぱか結んでいるかのどちらかで、しかも制服。

自己紹介で出身校を言うことになり、「ロンドンのクイントンキナストンスクールです」と正直に言ったところ、その場が何ともいえない奇妙な空気に包まれてしまったそうです。


自分が帰国子女の異物と認識されているという感覚は学校でも寮でも長く続きました。

周囲になじめず、孤立してしまったということでしょう。

後年、この時期の自分を「かなり危険な精神状態だった」と明かしています。

精神的に追いつめられてしまった織田さんを救ってくれたのは、エルトン・ジョンの『僕の歌は君の歌』でした。

織田哲郎は発達障害児童だった?

織田哲郎さんは小学校入学の際、普通のクラスに入れるかどうかについて学校側と両親で話し合いが持たれたことを明かしています。

担任の先生が責任を持つと請け合ってくれたおかげで通常の学級に入れたものの、授業中ずっと着席していることができなかったり、思いついたことをすぐに話しはじめたりといった問題行動はあったようです。

遠足の写真では、いつも担任の先生が織田さんを抱きかかえるようにして写っているそうです。

ご本人は「今で言う発達障害児童だった」と述べていますが、そんな織田さんをいつも救ってくれたのは音楽でした。

自分が作った音楽で救われたり、楽になってくれたりする人がいるのなら、今度は自分が恩返しをするべきと考えるようになったという織田哲郎さん。

かつてビーイングを牽引した、ヒット曲の仕掛け人の意外な秘話ですね。


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コメント

  1. 「いつまでも変わらぬ愛を」はラブソングだとばかり思っていた。実はお兄さんへの鎮魂歌だったとは。織田哲郎さんの生き方、生きざま、本当に格好良すぎる。希代のヒットメーカーが絶頂期にはこうしたことを語らず後年になり語るのも尚、格好いい。