『ナショナリズムの昭和』『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』などの著作がある、作家で批評家の保阪正康(ほさか まさやす)さん。
昭和史に関する著作が多いものの、愛する家族を失った経験をつづった作品も発表したことがありました。
今回は保阪さんの亡くなった家族について、特に息子さんの詳細を見ていきます。
併せて批評家としての評判、思想は革新派の左翼的なのか、保守派の右翼的なのか確認します。
保阪正康のプロフィール
本名:保阪正康
生年月日:1939年12月14日
身長:不明
出身地:北海道
最終学歴:同志社大学文学部社会学科
保阪正康が失った家族、息子の死
保阪さんは愛する家族を相次いで失ったことがありました。
最愛の息子、母、妹を同時期に亡くしたのです。
#2021年朝日新聞出版の本、<新書>のランキング1位は
『#陰謀の日本近現代史』#保阪正康「近現代史を学ぶのは、誰かの責任を追及するためではありません。社会の制約があるなかで、その時代の人たちはどう生きたのかを知ることに価値がある」
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特に子供に先立たれることは、どんな親御さんにとっても大きな悲しみのはず。
保阪さんは人生で最大の悲しみに見舞われたのです。
息子さんは1993年2月26日に病気で入院し、わずか1週間後に亡くなってしまいます。
急性の病気だったため、あっという間の予期せぬ出来事でした。
22歳のごく普通の学生だったのですから、まだまだこれから活躍するはずだったことを考えると、あまりに理不尽な死ですね。
保阪さんは悲しみが癒えないまま『愛する家族を喪うとき』を執筆しました。
保阪正康氏というと、昭和史の生き字引、半藤一利氏と同列で語られることが多いが、ぼくが保坂氏の著作を読んだその最初は、昭和史関連ではなくて『愛する家族を喪うとき』(講談社現代新書 / 1997/8/20)だった。これは名著だと、今でもそう思うよ。
— 北原文徳 (@shirokumakita) August 12, 2017
本書によると、息子さんを亡くした2年後に、妹さんが子宮頸がんで死去。
翌年に母が膀胱がんで亡くなりました。
息子さんの死によって負った心の傷も癒えないまま、他の家族を看取るのは、相当な苦しみを伴ったはずです。
妹さんは亡くなる2日前、保阪さんの奥さんと会話をしていました。
亡き甥の名前を呼び「神様のところへ行ったら、彼に会えると思う。伝言はある?」と、奥さんに訊ねたといいます。
カトリック教徒だった妹さんは、真面目な気持ちで問いかけていた様子でした。
あまりに真剣な表情に、奥さんはうなずくことしかできず、言葉は出なかったそうです。
キリスト教の世界では、「死」は神様の元へ行ける祝福行事のようなものとして扱われています。
保阪さんは著作に「自分もカトリック教徒だったら、奇妙な表現だが、妹の死を祝福できたかもしれない」とつづりました。
しかし実際には、愛する家族を失った大きな悲しみを感じながら、いつまでも癒えない傷を抱えて生きてきたのです。
信仰を持たない多くの日本人は、愛する人の死に直面すれば、保阪さんと同様絶望的な気持ちになるに違いありません。
保阪正康の評判はさまざま
作家としての保阪さんに対する評判はさまざまです。
先ほど紹介した『愛する家族を喪うとき』は、幅広い層に受け入れられた著作でした。
思想や歴史観を抜きに、1人の個人として家族の死についてつづったのですから、万人受けはしやすい内容だったのです。
特に多くの人から評価されている一節は、愛する人を亡くす意味について語った以下の文章です。
「単なる他者の死ではなく(中略)愛する人の中に存在していた自己が消滅すること」
ただ相手を亡くしたという事実に加えて、故人と共に生きていた自分自身という存在自体が消えてなくなるのです。
愛する人が亡くなった後は、その人と一緒に笑って過ごしていた自分は、もはや存在しません。
最愛の人の死を経験した多くの人が共感できる一節として、SNS上でも複数の人が紹介しています。
≪愛する人を喪うという意味は、単なる他者の死ではなく、その愛する人のなかに存在していた自己が消滅することでもある≫-保阪正康『愛する家族を喪うとき』、著者も二十二歳 の息子を病いで喪った。娘・天音のなかに存在した私も消滅してしまったということか。
— 山口平明 (@amanedo_h) December 26, 2012
続き)「中に占めていた愛する人への思いと同時に、愛する人のなかに存在していた自己を失った悲しみとの相乗作用が生まれるのではないだろうか。」『愛する家族を喪うとき』保阪正康(講談社現代新書)プロローグより。
— 北原文徳 (@shirokumakita) August 12, 2017
保阪さんは的確な表現で、死別を経験した人たちの心に寄り添ってくれたため、高く評価されているようですね。
批評家としても綿密な取材に基づいた昭和史に関する著作で評価され、『ナショナリズムの昭和』で和辻哲郎文化賞に輝いています。
保阪正康さんの興味深い回想インタビュー。『死なう団事件』から始まるその昭和史研究の集大成的一冊、『ナショナリズムの昭和』(小社刊)も併せてお読みいただければ幸いです。
79歳“在野の昭和史研究者”保阪正康 妻子持ちの32歳で大学院への道を捨てた日https://t.co/ZFgRPmmSG9 pic.twitter.com/Y6F2fgm7zE
— 幻戯書房 (@genki89476596) July 2, 2019
しかし漫画家・批評家の小林よしのりさんをはじめ、一部の識者からはその姿勢を批判されてきました。
小林さんによると保阪さんは「戦争の原因を国内の中で探っているだけで、外国からの視点が抜け落ちている」とのこと。
その歴史観を「狭い蛸壺に入っているような歴史観」として、「蛸壺史観」と評しています。
保阪さんの作家・批評家としての姿勢に対しては、読者や立場ごとにさまざまな評価が下されているのです。
保阪正康の思想は革新派左翼でも保守派右翼でもなく中道
保阪さんは特に保守派の右翼から毛嫌いされてきた印象があります。
ただし保阪さんが革新派の左翼かというと、断定はできません。
同志社大学の学生だった時代は、60年安保の反対運動に参加する生粋の左翼系でした。
しかし当時の参加者の大多数と同じく、周囲の空気に飲まれてデモに参加していたため、信念はなかったようです。
安保条約改定の中身をあまり理解しないまま、何となく参加していたということですね。
保阪さん自身は右翼的な風潮が隆盛することには危機意識を持ちながらも、左翼的な価値観にも違和感を抱いていました。
そのため「良質な中道」を目指してきたといいます。
これまで保阪さんは安保関連法案や森友学園問題を挙げ、国に対して批判的な立場を取ってきた印象があります。
国があまりに右傾化しているため、危機意識を持って発言してきたのでしょう。
逆に国が過度に左傾化した場合も、きっと保阪さんは政権を批判するはずです。
国がどちらの極端な思想にも流されず、中立的な風潮が確立されることを望んでいるのですね。
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