三浦綾子に息子なし。夫・三浦光世と家族。死因の多臓器不全、パーキンソン病との闘い

『氷点』『塩狩峠』『泥流地帯』などの代表作で知られ、キリスト教の思想を作品に反映させてきた三浦綾子(みうら あやこ)さん。

自身を「病気のデパート」と表現するほど、多くの病気にむしばまれながら、キリスト教の信仰を支えに生き抜いた人です。

今回は綾子さんを支えた親族について紹介します。

息子、夫・三浦光世さんの順番に、家族の詳細を確認。

併せて、死因となった病気の詳細とパーキンソン病との闘いについても見ていきます。

三浦綾子のプロフィール

本名:三浦綾子

生年月日:1922年4月25日

死没:1999年10月12日

出身地:北海道旭川市

最終学歴:旭川市立高等女学校

三浦綾子に息子はいない

まずは綾子さんの息子について確認しましょう。

綾子さんの息子がいるのかどうか、いるとすればどのような人なのか、気になる人は多いようです。

しかし実際には、子供はいませんでした。


小学校教員として勤めていた綾子さんが退職したのは24歳の頃。

この時期に患った肺結核を筆頭に、脊椎カリエスや心臓発作、帯状疱疹、直腸がんなど、数々の病気と闘いました。

病床でキリスト教の信仰に目覚め、受洗してからはクリスチャンとして神の愛と信仰を支えに生き続けるのです。

すさまじい闘病生活を送りながら、執筆に励んでいた彼女に、出産して育児をする余裕はなかったはずです。

健康的な身体に恵まれていれば、子供を育てる喜びを感じられたかもしれません。

ただ綾子さんは自身の境遇を嘆くことはなかったのではないでしょうか。

少なくとも三浦作品のファンである筆者としては、彼女が夫の愛とキリスト教のおかげで、悔いのない生涯を送れたと信じたいのです。

三浦綾子は夫・三浦光世と2人家族

綾子さんは1959年、旭川営林局に勤めていた三浦光世さんと結婚しました。

綾子さんはキリストの教えを伝えてくれた幼なじみの前川正さんという男性を慕っていました。

婚約者でもあった前川さんは、綾子さんにとって同じ肺結核を患った療養仲間でもありました。

2人は歌人として短歌雑誌「アララギ」に投稿しており、短歌の話でも意気投合し、お互いのことを歌に詠んだこともあります。

しかし前川さんは先に亡くなり、残念ながら2人は結ばれなかったのです。

綾子さんは、
「妻の如く 想うと吾を抱きくれし 君よ君よ還り来よ 天の国より」
という歌で彼の死を嘆きました。

婚約者でもあり、病気と闘う同志でもあり、さらに大好きな歌を詠み合える理想的な伴侶を失ったのは大きな悲しみだったはずです。


前川さんの死から間もない1955年頃のこと。

綾子さんは「アララギ」に短歌を投稿していた光世さんと出会います。

光世さんは封書4通とハガキ7通を綾子さんに送り、彼女に深い愛情を抱いていることをアピールしました。

彼の書斎の戸棚にしまわれていたというラブレターの数々には、綾子さんへの率直で熱い気持ちがまとめられています。

光世さんは落ち着いた雰囲気をたたえた穏やかな性格の人で、感情を表に出すことはありませんでした。

しかしラブレターでは熱い想いを真っ直ぐな言葉で伝えており、綾子さんに対しては素直な感情を出していたことがうかがえます。

綾子さんに対して「素直な美しい心」を持っていることをつづった一節は、読んでいるだけでくすぐったさを感じそうです。

ただ光世さんは他人に読まれるとは考えずに書いたはずですから、のぞき見をしてしまったようで、少し申し訳ない気持ちになりますね。

すてきなラブレターでのアピールは実を結び、2人は結婚して添い遂げることになります。

光世さんは動けない妻のため口述筆記に専念して、その創作活動を助け続けました。

1999年に妻を看取り、15年後の2014年に90歳で敗血症により亡くなります。

妻と同じくクリスチャンとして人を助け、愛と信仰に生きた生涯でした。

三浦綾子の死因は多臓器不全

1999年10月12日、病気と闘い続けた綾子さんはついに77年の生涯を終えました。

死因は多臓器不全。

肺や腎臓、脳といった重要臓器の働きが低下し、最悪の場合、命を落とす病気です。

さまざまな病気で負荷がかかっていた綾子さんの臓器は、機能が低下しやすい状態になっていたのかもしれません。

肺結核や脊椎カリエスといったかつての不治の病を乗り越えたものの、1980年に入ってから病気を次々と患っていました。

「自分の人生は長くない」と悟った結果、最後の力を振り絞りながら、伝記小説を精力的に書き進めます。

三浦綾子はパーキンソン病で闘病

1990年代に入ってから綾子さんは、パーキンソン病も発症しています。

神経細胞に特殊なたんぱく質が凝集することで起きる病気で、静止しているときに身体が震えるのが特徴です。

身体を思うように動かせない病気ですが、綾子さんは最後の力を出し切って『母』と『銃口』を完成させました。

戦時中に自由な表現を禁じられた事実を書き残すべく、戦争に加担してしまうことの恐ろしさを伝えた両作を執筆したのです。

綾子さんの「遺言」とも呼ばれる『母』と『銃口』。

ともすると同調圧力に負けて、戦争に突き進む人間の弱さをあぶり出し、手を取り合いながら支え合うことの大切さを訴えました。

憎しみではなく愛を大切にして生きる。

口に出すのは簡単ですが、これを実践できる人は少ないものです。

その点、綾子さんは言葉で愛の大切さを訴えるだけでなく、光世さんと手を取り合いながら愛に生きることを実践したのです。


北海道旭川市を拠点に、病気と闘いながらも決して心折れることなく、執筆に明け暮れた35年間。

綾子さんが光世さんと生み出した愛の結晶とも言える100冊以上の本は、あがき苦しみながら生きる人々の希望となり続けています。

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