水上勉の娘は2人。息子との再会。妻と家族まとめ&森光子とのエピソード

『飢餓海峡』、『越前竹人形』などの名作を発表した直木賞作家・水上勉(みずかみ つとむ)。

映像化、舞台化された作品が多く、二枚目作家ということもあり、とくに女性芸能人との交流は多かったと言われています。

今回は水上について、娘、息子、妻をメインに家族情報をまとめ、大女優の森光子さんとのエピソードもご紹介します。

水上勉のプロフィール

本名:水上勉

生年月日:1919年3月8日

死没:2004年9月8日

身長:不明

出身地:福井県おおい町

最終学歴:立命館大学国文科中退

水上勉の娘は2人

まずは水上の子供たちと妻について見ていきましょう。

娘については長女蕗子、次女直子がいることがわかっています。

長女と離れて暮らした過去

水上と蕗子は、ずっと一緒に生活していたわけではありません。


一時期は、若狭に住む両親に長女を預けたことがありました。

そのきっかけとなったのは、当時の妻だった松守敏子の裏切りです。

詳しくは後述しますが、松守は1949年に別の男性と駆け落ちをしています。

長女を産んだ後でしたが、育児を放棄して家を出てしまったのです。

幼い娘を捨てるというのは、なんともひどい話ですね。

せめて、わずかでも罪の意識があったと思いたいものです。

この出来事により、水上は松守と離婚。

娘を一時的に両親の元へ預けたのです。

詳しい理由は不明ですが、妻がいない状態で仕事をしながら育児をするのは大変でしょう。

両親に面倒を見てもらうことにしたのは、やむを得ない決断だったのかもしれません。

その後の水上は、1956年に年下の妻と再婚。

ようやく蕗子を引き取れる状態となり、再び同居を始めました。

可愛い娘とまた一緒に暮らせるわけですから、当時の水上はとても喜んだのではないでしょうか。

その後、成長した蕗子は俳優の京極潔と結婚しましたが、1973年に自宅の火災で夫を失いました。


ちなみに、水上勉の長女として座談会などに出ることもあるようです。

難病を患った次女

直子は脊椎破裂および水頭症という難病を併発しており、手術での治療も望みはないとされていたそうです。

成功しても障害が残り、廃人同然となる見込みでした。

それでも水上は娘を生かしてやりたい一心で必死に原稿料を稼ぎ、手術代を捻出。

結果的に直子は手術を受け、進学を果たしたということです。

『拝啓、池田総理大臣殿』という文章で障害児への福祉政策の重要性を述べており、彼が親としての責任を感じていたとわかります。

ちなみに、直子の手術で骨を移植したのは当時の妻だった西方叡子。

母と娘は療養のため、3年ほど大分県別府市で生活しています。

水上は、またしても娘と離れて暮らすことになったわけです。

とはいえ、手術が成功した後のこと。

それに母親も一緒なら、少しは安心できたことでしょう。

当時の水上は、療養を終えた直子が帰ってくるのを、心待ちにしていたのかもしれませんね。

消息不明だった息子と再会

娘思いの父親としての水上の姿がわかりましたが、では息子はいたのでしょうか。

実は1941年に長男の凌が生まれているのですが、当時は戦中で苦しい生活を送っていたため、養子に出すことになりました。

しかし東京大空襲で息子はそのまま行方不明となり、長らく消息不明でした。

凌は明大前で靴の修理業を営んでいた窪島家の養子となり、窪島誠一郎として育ちます。

海城高校を卒業後、様々な仕事を経て、実家でスナックを開業。


画廊や小劇場も設立して、文筆家としても活躍。

1997年には長野県上田市に、戦没学生による絵画作品を展示する美術館「無言館」を設立したことが、最も有名な業績でしょう。

窪島は実父を捜し続けた末に水上が親であることを知り、1977年に親子再会を果たしています。

ただ偉大な父に対する敬意は持っていたものの、実母に対しては冷遇していたという情報がありました。

さらに窪島家の養父母とも口を利かず、ただ自分のやりたいことをやるだけの人物だったという評価もあります。

結果的に実母にあたる女性は81歳で自殺。

マスコミによって大々的に報じられた父子再会の裏で何があったかはわかりませんが、実母が冷遇されていたのは事実のようですね。

マスコミは感動の再会を報じて宣伝効果を狙ったのでしょうが、煮え切らない結末を残しています。

窪島が実母や養父母を冷遇しておきながら、水上とは親子愛で結ばれようとした、冷淡な人物とする声があるのはそのためでしょう。

ちなみに、父である水上のことは「先生」と呼んでいたそうです。

よそよそしい感じもしますが、初めて父と再会したとき、誠一郎はすでに36歳。

その年でいきなり「父さん」と呼ぶのはハードルが高かったようです。

それに、父親の作品は昔から読んでおり、すっかりファンとして楽しんでいたのだとか。

本当に好きだったようで『飢餓海峡』に出てくる岬を見るため、北海道へ旅行したこともあるそうです。

そんなエピソードを知ると、「先生」という呼び方には深い尊敬が込められていたことが想像できますね。

水上勉、妻との離婚と再婚&家族まとめ

では水上の妻はどんな人物だったのでしょうか。

21歳で上京した水上は、翌年に加瀬益子という女性と同棲し、のちの窪島誠一郎をもうけました。

貧しさのあまり長男を養子に出してから、1943年に前述の松守敏子と結婚。

長女の蕗子をもうけましたが、49年に敏子は夫と子供を捨てて印刷会社の長男と駆け落ちし、離婚となりました。

56年に再婚した西方叡子との間に、前述のとおり次女の直子をもうけています。


最終的な妻である叡子は、夫が亡くなるまで生活を共にしました。

つまり水上には、3人の女性との間にそれぞれ1人ずつ子供がいることになりますね。

若い頃から非常にモテていたことがうかがえますが、敏子は彼の生活力のなさに嫌気がさし、経営者の息子のもとに走ったのでしょう。

水上勉と森光子のエピソード

最後に水上と大女優の森光子さんとのエピソードを見ていきましょう。

色気のある二枚目だった水上は、森さんと交際していたという情報があります。

生前彼と交流のあった元大蔵省の相澤英之さんによると、水上は森さんにかなり入れ込んでいる時期があったそうです。

大阪のコマ劇場で、森さんが相澤さんの妻である司葉子さんと舞台で共演していた時のこと。

楽屋で化粧をする森さんを、水上は熱心に食事に誘いました。

結局相手にされなかったのですが、一度惚れるといつまでもめげずにアタックする男性だったことがうかがえます。

恋愛関係にあったという情報もありましたが、実際は水上の愛情が強かったようです。

森さんはマスコミによって騒がれた結果、「水上さんとの友情に近い「愛」は消滅してしまった」という発言をしています。

濃密な恋愛関係にあったのではなく、交友関係の段階で森さんが振ってしまうことでスキャンダルを防いだのでしょう。


サバサバとした彼女の性格であればあり得そうな話ですね。

2人とも恋多き男女ですし、釣り合いが取れているという点では噂になりやすかったのかもしれません。

一筋縄ではいかない彼の人生が、そのドラマチックな作品群に直接反映されているのかもしれませんね。

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