竹下登の自宅は世田谷区代沢。若い頃の顔と経歴。死因は呼吸不全。病気で引退後は不遇の晩年

気配り上手な人柄とともに、昭和最後の内閣総理大臣として名を残した政治家・竹下登(たけした のぼる)。

自宅は世田谷区代沢にある豪邸でしたが、主が亡くなったのちどのように扱われ、2023年現在はどうなっているのでしょうか。

今回は竹下邸の現在(2023)とともに、竹下の若い頃の顔や活動を確認していきます。

そのうえで死因、病気がちだった晩年についてまとめていきます。

竹下登のプロフィール

本名:竹下登

生年月日:1924年2月26日

死没:2000年6月19日

身長:推定164cm

出身地:島根県飯石郡掛合村(現在の雲南市)

最終学歴:早稲田大学商学部

竹下登の自宅は世田谷区代沢の佐藤栄作邸

竹下の自宅があった世田谷区代沢は高級住宅街で、著名な政治家や文化人が多く暮らしています。

元内閣総理大臣だった佐藤栄作も代沢に居を構えていました。

竹下が暮らした豪邸は、実はもともと佐藤が所有していたものでした。


佐藤の没後、税金対策として豪邸を借りて暮らし始めたのです。

2023年現在、豪邸は取り壊され、跡地には高級分譲マンションが建っています。

かつて豪邸があった代沢二丁目付近は、昭和初期に邸宅街「清風園」として開発されたエリアです。

高級住宅街の中でも清風園は松濤の「松濤園」、大山の「大山園」とともに「別格扱い」されていました。

仏閣がある落ち着いた雰囲気の丘陵地。

安らぎと気品に満ちており、竹下は一流政治家にふさわしい街として愛していたのでしょう。

このエリアは今では「第一種低層住居専用地域」として、建物の高さが10~12mまでに制限されています。

高層ビルが建つ喧騒に満ちた街とは真逆の、広い空が続く平穏な街です。

佐藤・竹下亡き今も、多くの要人に愛される土地として知られています。

竹下登の若い頃の写真と挫折エピソード

島根県の「竹下登記念館」には竹下の若い頃の写真が展示されており、無料で確認できます。

若い頃の姿について、孫・DAIGOさんのようなイケメンを期待していた人もいるかもしれませんが、雰囲気は異なりますね。

ただ写真からは誠実そうな雰囲気が感じられるため、慕う人は多かったのではないでしょうか。


竹下さんは「気配り・目配り・金配り」を武器に総理にまでのぼり詰めた、「調整型政治の達人」と呼ばれています。

親交のあったジャーナリストの田原総一朗さんによると、DAIGOさんにもそのDNAは受け継がれている様子とのこと。

テレビ局でDAIGOさんが、田原さんに対して低姿勢で丁寧に挨拶をしてくれたのだそうです。

「祖父が大変お世話になったとうかがいました」と、頭を下げたといいます。

田原さんは「気配りのできたおじいさんに育てられたのだろう」と感じたそうですよ。

竹下の実家は、江戸時代から続く庄屋の家系が営む造り酒屋「竹下本店」でした。

農地や山林なども所有する地主の家で、父・勇造は島根県議会員を務めたエリートです。

裕福な家庭に育った竹下ですが、旧制松江高校(現在の島根大学)の受験に2度失敗し、挫折を経験しました。

進学をあきらめて上京し、大学予科の第一早稲田高等学院に入学します。

しかし在学中の1944年8月、太平洋戦争によって学徒動員され、陸軍に入営せざるを得なくなりました。

陸軍飛行隊に入隊しましたが、幸運にも激戦地への出征を免れて終戦を迎えました。

復員後は早稲田大学商学部に復学します。

戦時中は「受験で挫折したまま死ぬのは絶対に嫌だ」と考えていたのではないでしょうか。

だからこそ復学して懸命に学業に励んだに違いありません。

卒業後は地元の中学校で英語教師となり、気さくな人柄で生徒に慕われました。

教員として働く傍ら地元の青年団で活動し、野中広務や浜田幸一など、のちの政治家たちの人脈を確保します。


その後は政治家を目指して地元の県議会議員となりました。

物腰柔らかな飾らない人柄で親しまれる一方、内側には「国を変えたい」という野心を抱く熱い若者だったのですね。

竹下登の死因は呼吸不全で暗殺ではない

竹下は内閣総理大臣にまでのぼり詰めたため、歴史的には要人・偉人として扱われています。

そのためか「最期は暗殺だったのでは」と考える人もいるようです。

有名な政治家というだけで、すぐに「暗殺」と結び付けた噂が流れやすいのは、いつの時代も同じですね。

実際には竹下は暗殺ではなく、2000年6月19日に膵臓がんにより、76歳で亡くなりました。

発表では、変形性脊椎症によって起きた呼吸不全が死因とされました。

葬儀は地元の島根県・自民党島根県連・竹下家の合同葬で行われています。

竹下登は病気で政界を引退後に衰弱

1989年6月2日に総理を辞任した竹下は、10年後に変形性脊椎症を患い、北里研究所病院に入院しました。

病気を患ってからは、表舞台に出ることはなかったそうです。

2000年5月1日、病床で録音したテープの音声が、小渕派の最高幹部たちが記者会見で流したことで引退宣言となりました。

引退表明後、政治家ではなくなったことにより気力を失ってしまったのか、急激に衰弱していったそうです。

竹下登は不遇の晩年を送った様子

田原さんによると、竹下は「与党にも野党にも気配りのできる首相だった」といいます。


しかし贈収賄事件「リクルート事件」で辞任に追い込まれた辺りから、気力が徐々に失せて、不遇の晩年を送ったようでした。

まだまだ日本という国に不満を抱き、自らの手で改革したいことはあったはず。

志半ばで辞任し、闘病の末に亡くなったのは、さぞかし無念だったに違いありませんね。

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