浜田省吾に姉2人、甥はバンドマン?父親の死因は癌。生家(実家)は竹原市&生い立ちまとめ

浜田 省吾(はまだ しょうご)さんは「悲しみは雪のように」など数々のヒット曲で広く知られていますが、家族などプライベートは秘密のヴェールに包まれています。

中でも情報が少ない姉や甥の存在や父の死因などが注目を集めているそうなので、今回の記事では浜田さんの身内や実家、生い立ちについてクローズアップしてみました。

浜田省吾のプロフィール

本名:浜田 省吾(はまだ しょうご)

出身地:広島県竹原市

生年月日:1952年12月29日

所属事務所:ロード&スカイ

代表的な楽曲:悲しみは雪のように etc

浜田省吾の姉は2人で甥はバンドマンをしていた?

まずは浜田省吾さんの姉と甥についてリサーチしていきます。

浜田さんは3人兄弟の末っ子で姉が2人いるそうですが、詳しい情報は明らかになっていません。

通っていた高校は兄弟そろって広島県呉市にある呉三津田高校ということは分かっているものの、その後の経歴などについては全くと言って良いほど情報がありませんでした。

長女・次女のどちらのかは分かりませんがエルヴィス・プレスリーが好きだったことが浜田さんにも影響を与え、音楽に目覚めるきっかけになったことは有名な話として語り継がれています。


他にも姉が20歳の誕生日に貰ったギターを浜田さんが自分の物にして腕を磨いたエピソードもあるそうなので、ある意味で”アーティスト・浜田省吾”を生んだのは姉と言えるかもしれませんね。

また、姉の子供(甥)がバンドのギター&リーダーをしていたという噂もあるそうですが、それを裏付けるような確固たる証拠を見つけることはできませんでした。

今回の調査ではあまり大きな収穫が無かったので、今後も継続して情報を収集していきます。

浜田省吾の父親の死因は癌

この項目では浜田省吾さんの父親の死因について迫っていくことにしましょう。

省吾さんの父親の名前は敏太(とした?)さんといい、太平洋戦争の頃から警察官として広島県の尾道署に所属していたそうです。

1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されて大変な被害が発生した際、敏太さんは惨劇の直後から救援隊として現地で活動をしたことで「二次被爆」をしてしまいました。

当時の敏太さんは25歳だったそうですが、二次被爆の影響を受けて体調を崩してしまったそうです。

幸いにして体調が回復したことで警察官に復帰をして市民のために働き、1987年4月30日に癌のため69才という若さで他界されました。

敏太さんが亡くなった翌年に省吾さんはアルバム「Father’s Son」を発売していますが、その中に収録されている「DARKNESS IN THE HEART:少年の夏」に父を偲ぶような歌詞があります。

曲中の「思い出す 病室で痩せていく父の姿を 痛みから解かれて去っていった 独りきり 車の窓に映ってる おれの顔 彼に似てる」はまさに省吾さんと敏太さんの関係と言えるでしょう。

敏太さんの癌については膵臓(すいぞう)癌だったと言及されている人もいるそうですが、具体的な病名を報じた情報源に接することが出来なかったので今回は「ガン」として紹介をしました。

竹原市の生家(実家)が空き家になっていた

歴史に残るようなスポーツ選手や政治家、芸能人の生家(実家)は一種の観光地になることが多々ありますが、浜田省吾さんの生家もファンの間では「聖地」として話題になっていました。


浜田さんの生家は広島県南部の港町・竹原市の少し郊外にあります。

大々的に紹介するような看板などは無いものの、タクシーやバスの運転手さんに聞くと「ああ、浜田さんの実家は…」という感じで教えてくれるとのことでした。

本来であればこの手の話題で具体的な地名を記述することは差し控えていますが、2023年現在は誰も住んでいない空き家になってるので近くの地図まで紹介します。

地図にある長建寺の道を上がって行くと浜田さんの生家があります。

もう少し生家に関する情報が無いか調べると、youtubeに浜田さんの家を訪れた動画がありました。

誰も住んで居ないので家自体はさびれてしまっていますが、浜田さんが生まれ育った生家であり実家であることは色あせません。

地元自治体や周辺住民の方も観光地化するつもりは無いそうなので、訪れる際には生活環境を乱すことなく、マナーを守って聖地巡礼をするようにしましょう。

浜田省吾の暗い生い立ちがアーティストの糧になった

最後に少し暗かった生い立ちが浜田省吾さんに与えた影響について見ていおきましょう。

前項で紹介した通り、父親が二次被爆をしているので浜田さんは”被爆二世”になります。

自らのルーツに加えて広島県が原爆関係や反戦教育に熱心だったことは人格形成にも影響を与え、浜田さんがアーティストとして「反戦」を訴える大きなきっかけになりました。

多くのアーティストが反戦をテーマにした曲を発表していますが、その中でも浜田さんの曲が強く人々の心を揺さぶるのは広島出身で身近に体験者がいるという点があるでしょう。


また、幼少期は父親が警察官という事情で転校を繰り返す日々を送ったことから友人も少なく、一人で音楽を聴いたり空想したりして過ごすという孤独な少年時代を送っていたそうです。

浜田さんは当時を振り返ると「嫌な思い出の方がすぐに出てくる」と語っていますが、少年時代に培った空想力は想像力になり、音楽をよく聞いたことで感性を磨けたとも言えるでしょう。

一見すると原爆関係や反戦教育が多く、転校を繰り返した生い立ちは暗いと言える一方、その記憶や経験がアーティストの礎となり、作品として昇華されたという見方もできます。

実際のところ、生い立ちの様々な経験が浜田さんにどれほどの影響を与えたかは分かりませんが、少なくとも表現者としての糧になったことだけは間違いないでしょうね。

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