シングル『15の夜』や『卒業』で知られ、死後もなお人気を誇り続けているシンガーの尾崎豊(おざき ゆたか)さん。
伝説的なミュージシャンは、どのような幼少期を送っていたのでしょうか。
埼玉県朝霞市にあった実家の情報と、東京都練馬区での生い立ちについて見ていきましょう。
また出身中学、高校、大学の情報をチェックします。
尾崎豊のプロフィール
本名:尾崎豊
生年月日:1965年11月29日
死没:1992年4月25日
身長:178cm
出身地:東京都世田谷区、練馬区
最終学歴:青山学院高等部退学
尾崎豊の実家は朝霞
尾崎さんの実家は、埼玉県朝霞市にあります。
大好きな❤️尾崎豊の❤️実家に❤️行ってきました❤️今は❤️誰も❤️住んでいないのだけど❤️尾崎豊の❤️声が❤️聞こえてくる❤️気がします❤️ pic.twitter.com/5Nmr8EF0Kj
— 居酒屋一番さとし@ハートマークは愛の象徴❤ (@ichiban3104) October 22, 2020
出身地は東京都練馬区でしたが、小学校4年生のときに朝霞市へ転居しました。
実家は朝霞台駅南口から歩いて20分ほどの場所にある一軒家です。
高校を卒業して歌手デビューするまで、ここで暮らしました。
1人暮らしを始めてからも度々実家に帰っていたため、愛着がある場所だったことがわかりますね。
2018年に尾崎さんの父親が亡くなってからは空き家となっており、残念ながらいずれ壊される予定のようです。
近所迷惑になるため、記念館にする予定はないそうですが、何らかの形で保存してもらいたいのがファンの本音ですよね。
ただ尾崎さんゆかりの地は、実家以外にも多くあります。
少年時代には老舗駄菓子屋「太陽堂」に通い、店内のゲームで遊んでいました。
店内にはサインが飾ってあり、ファンにとって聖地的存在となっています。
たまたま前を通りかかった駄菓子屋さんに入ってあまりのレトロっぷりに感動して写真撮っていいですか?ってお店のおばちゃんに聞いたら「尾崎豊のファン?」と聞かれ何事かと思ったら尾崎豊が子供の頃通ってたらしく、ファンの聖地化してるとか。
いいえ、私は駄菓子屋のファンです…! pic.twitter.com/qBoTfJyqzq— ししこ PAViLiON (@PAViLiON_S) November 5, 2019
お店の人は、大人しい印象だった尾崎さんが歌手デビューしたとき、非常に驚いたそうですよ。
尾崎豊のサインをパシャリ📸
ちなみにこの駄菓子屋は埼玉県朝霞市溝沼にあります
知る人ぞ知る老舗駄菓子屋⭐️ pic.twitter.com/2us99Pwk91— michiko (@iDEtAwvTVLVFEPT) October 27, 2018
また代表曲『坂の下に見えたあの街に』に登場する「坂」のモデルとなったのは、朝霞市にある神明坂です。
#朝775#内藤博子 #ばんばん
尾崎豊さんの曲の舞台になった坂は、城山通り沿いにあるパン工房サンメリーの脇にある『神明坂』ですね。
坂の下に尾崎豊さんのご実家がありました。#朝霞市 #神明坂 pic.twitter.com/EvcLj562fy— みなたろう (@KOHRAKUnoTanmen) November 29, 2021
#尾崎豊 / 坂の下に見えたあの街に
尾崎豊の実家近くの坂道を歌った曲
いつも坂道を下って家に帰ってたのを、デビュー後、実家を出るために坂を登っていったことを詩的に歌っている♫♪ pic.twitter.com/9ejZXZR6Cx
— Little Luck ! りとるらっく (@LittleLuckMcC) October 28, 2020
尾崎さんは中高時代にこの坂を使って通学していました。
朝霞市に赴き、伝説のシンガーゆかりの地を巡るファンは後を絶たないのでしょうね。
尾崎豊の練馬での生い立ち
尾崎さんは東京都世田谷区で生まれ、陸上自衛官の父、母、5歳年上の兄と共に暮らしました。
1972年に練馬区立田柄第二小学校へ入学しますが、4年後に朝霞市立第二小学校へ転校します。
2年後に再び練馬区へ戻り、練馬区立東中学校に入学しました。
向山公園。やっと来た!#尾崎豊#15の夜#尾崎豊を探して pic.twitter.com/R4t0MhJHxc
— アル (@alrock222222222) January 9, 2020
練馬区の住宅街にある向山公園は、代表曲『15の夜』の舞台として知られています。
尾崎豊は練馬区立東中学校で停学になる
練馬区立東中学校に在学中、尾崎さんは生徒会副会長や文化祭実行委員長を務める優等生でした。
しかし友人が、長い髪を教師によって強引に切られてしまったことがきっかけで、学校に反発するようになります。
仲間たちは夜中に向山公園へ集まり、家出する計画を立てました。
故障していたバイクを修理し、尾崎さんは無免許にもかかわらず仲間と一緒に乗り回します。
有名な「盗んだバイクで走り出す」というフレーズは、この体験から生まれたとされてきました。
その後尾崎さんは、中学校で喫煙をとがめられたことがきっかけとなり、停学処分を受けるのです。
高校は青山学院高等部で退学。大学には進学せず
停学処分を受けたものの、非常に頭が良かった尾崎さんは、難関の慶應義塾志木高校を受験します。
結果は不合格でしたが、名門・青山学院高等部に合格しました。
さらに20倍もの競争率となった、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも合格します。
自衛隊では髪を短くする必要があったため、髪を伸ばしたままでも過ごせる青山学院高等部への進学を選びました。
しかし在学中に非行はエスカレートしていきます。
喫煙のほか、バイク事故を起こし、3年生のときは渋谷で仲間と飲酒をしました。
このときクラスメイトの女子が、一気飲みによって急性アルコール中毒を発症してしまいます。
クラスメイトは救急搬送され、直後に尾崎さんのグループと大学生のグループが乱闘騒ぎを起こします。
パトカーが出動するほどの事態となり、尾崎さんは無期停学処分となりました。
後日、停学処分は解除されたものの、進学に必要な出席日数が不足してしまいます。
留年が決定した結果、尾崎さんは自主退学することに。
この2年前の時点で、すでにCBSソニーのオーディションに合格し、歌手デビューを果たしていました。
音楽で身を立てることを決めていたため、高校を退学し、大学には進学しなかったのです。
1983年にファーストシングル『15の夜』、ファーストアルバム『十七歳の地図』を発売します。
1984年3月15日、青山学院高等部の卒業式と同日に、新宿ルイードでデビューライブを行いました。
6日後にはシングル『十七歳の地図』を発売し、トップスターへの階段を上り始めるのです。
自身の体験も土台に反社会的な歌を歌い、くすぶった感情を抱く若者たちの圧倒的な支持を得た尾崎さん。
26年の短くも波乱に満ちた生涯に、人々は今なお惹きつけられているのです。
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