『もらい泣き』や『ハナミズキ』でブレイクした歌手・一青窈(ひととよう)さん。
北京語、英語、日本語が話せるトリリンガルであることも話題です。
今回は一青窈さんの国籍や両親、生い立ちについてお伝えしていきます。
一青窈のプロフィール
愛称:窈ちゃん、一青っち
本名:一青窈
生年月日:1976年(昭和51年)9月20日
身長:155cm
出身地:台湾
最終学歴:慶應義塾大学環境情報学部卒業
所属事務所:株式会社大家(ターチャー)
一青窈は日本国籍で台湾ハーフ
一青窈さんはトリリンガルで、日本では珍しい名前をしています。
ここでは、国籍やハーフ説について見ていきましょう。
一青窈の国籍は日本
一青窈さんの国籍は明らかにされていませんが、日本国籍と考えられます。
小学生の頃からずっと日本で生活していることや、コロナ禍中も日本にいたためです。
国籍に疑問が上がるのは、一青窈さんの名前に要因があるようです。
確かに、「一青」という苗字は日本ではあまり見かけませんね。
しかし調査すると「一青」は日本固有の苗字で、石川県能登郡一青庄が発祥の地とされています。
このことからも、母親の家系は石川県に根付いた生粋の日本人であることがわかります。
日本の法務省サイトの記載にも、父か母どちらかが日本人であれば、子どもは日本国籍を取得出来る旨が記載されています。
そのため一青窈さんは台湾生まれのハーフであっても、所定の手続きを踏めば日本国籍を取ることが出来ているはずです。
父親が台湾人のハーフ
一青窈さんは台湾人の父親と、日本人の母親を持つハーフです。
父親は実家が台湾屈指の名家で、母親と出会ったのは日本への留学中でした。
結婚後は台湾で生活の拠点を移し、そこで一青窈さんが生まれます。
しかし一青窈さんは小学1年生になる頃に日本へ移住しています。
それから2023年現在まで日本に定住しているため、台湾生まれ、日本育ちのハーフということになります。
一青窈の両親は財閥
一青窈さんの父親は顔恵民さんといい、台湾の五大財閥「顔家」の長男として生まれました。
祖父は創業者の顔欽賢さんで、中国福建省から豊かな土地を求めて台湾に渡った移民です。
九份などの金鉱や炭鉱を開発して莫大な富を築きました。
台湾の五大財閥は『五代家族』と呼ばれているほど有名です。
一青窈って財閥令嬢やったんか…すげぇ pic.twitter.com/XsrUv0eBTL
— 👿KAZ😈KAZ👿 (@hankinsyuku) December 13, 2020
また、顔という苗字は珍しいため台湾現地でこの名前を明かすと、財閥の人間であることがわかってしまうほど。
全盛期は6万坪の土地を所有し、庭園は住民の憩い場になっていたといいます。
当時台湾は日清戦争で清が敗北したため、日本の統治下にありました。
現地の上流階級では日本への内地留学が盛んになっていたために、一青さんの父親も10歳の頃から日本へ留学。
学習院中等科と早稲田大学鉱山科にも進学しており、台湾語より日本語の方が上手かったといいます。
太平洋戦争が終結すると台湾に戻りますが、国内は戦後の混乱が続いており政府と住民が衝突していました。
父親は台湾へ戻りますが、顔欽賢さんや同級生が反乱への参加を疑われ、政府に捕らえられる様子を見て漁船による密航で日本へ避難。
基隆顔家の子孫である作家の一青妙さんは事件の際に指名手配され、自新(自白・告解)に追い込まれた祖父顔欽賢の記録を目撃し、祖父の名誉回復を決意。二二八委員会に賠償申し立てを行い、「顔家の転換期正義」を実現しました。「二二八事件と日本人」2回目の文章です。https://t.co/TOiJ8uRKEs
— 野嶋剛|ちくま文庫『日本の台湾人――故郷を失ったタイワニーズの物語』まもなく発売! (@nojima_tsuyoshi) February 27, 2022
そのため戦前から戦後にかけて長い日本生活を送ることになり、その間に母親と出会い結婚することになりました。
母親は一青かづ枝さんといい、生命保険会社で働き美容師免許も取得していました。
大財閥であることは結婚前まで知らず、日本のつつましい家庭で育った母親は台湾の財閥一族に受け入れるか不安に思っていました。
母が結婚する前に父へ送った手紙には、日本でつましい家庭に育った自分が顔家に受け入れられるのかという不安が綴られています。父が心配はいらないと伝え、母もようやく決心したのでしょう。
しかし父親に励まされ、結婚後は台湾に渡って家庭を築いていきます。
ところが現地の文化に馴染めず、時には後ろ指を刺されながら苦労したといいます。
当時は戦後間もなく、日本が台湾を統治していた背景もありました。
そのような混乱の中で、日本にルーツを持つ母親が財閥一族で暮らすことはさぞ複雑な状況だったことでしょう。
父親もまた、慣れ親しんだ日本人が敗戦国民と認定され、自身は中国政府側としていきなり線引きされたことで強いストレスに苦しみました。
一青窈さんの両親は激動の時代のなかで苦労して一青窈さんを育てていたようですね。
一青窈の姉・一青妙は女優
姉は一青妙さんといい、一青窈さんより6歳上です。
🇹🇼東京タワー台湾祭2017🇹🇼あと2日!
🎉ステージ紹介🎉
『一青妙』
台湾人の父と日本人の母を持ち、歯科医や女優、そして台湾をテーマにしたエッセイを数多くでされている作者として活躍している一青妙さん。
ウェブサイト👉https://t.co/i2IgZYJChm pic.twitter.com/PnGdV7FNLY— 台湾祭 (@TaiwanMatsuri) March 16, 2017
歯科医師であり、舞台女優やエッセイスト、ナレーターとしても活動しています。
姉の妙さんのこれまでの活動は亡くなった両親が原動力となっています。
幼い頃から母親に「手に職をつけなさい」とアドバイスされ、父親の闘病のこともありまず医学の道へ。
手先の器用さを生かして歯科医師となりました。
2023年現在は老人施設への訪問診療を中心に活躍しています。
次に「顔家の歴史を調査することが私が今ここにいる意味を知ることにもなる」と語り、舞台やエッセイでは顔家を題材にしたものを制作。
政府と台湾住民の抗争に巻き込まれた「顔家」には何が起きていたのか、祖父の顔欽賢さんや父親の顔恵民はどう生きたのかを解明するため日々調査し、エッセイにまとめる活動をしています。
まだ幼かった一青窈さんは父親のがんも知らされておらず、母の病気も知りませんでした。
しかし姉の妙さんは両親の異変を感じ、自宅にしまってあった医師の録音テープから父親のがんを知っていました。
母親のがん発覚時も、医師から告知されたのは姉です。
顔家の混乱や、一青家の苦労を最後まで背負って頑張ってきたのは姉の一青妙さんかもしれませんね。
一青窈の生い立ちが壮絶
一青窈さんは台湾人の父親と日本人の母親のもと、台湾で生まれました。
そして小学校1年生に進級する頃に、父親を台湾に残して母親と姉と3人で日本移住。
母親の実家、東京都世田谷に身を寄せました。
一青さんが小学校2年生になると、台湾に残した父親は肺がんで死去。
父親の死去とともに名前を「顔窈」から「一青窈」に変え、母の旧姓を使い始めます。
一青さんは片親のコンプレックスを感じており、父の日や親戚行事で父親が来ないことを寂しく思っていました。
また台湾から移住してから、日本で生まれ育った子供たちとの差異も感じアイデンティティも崩れてしまいます。
「なぜ父親がいないの」という悲しみから「なぜ自分はここで生きているの」とまで考えるように。
そんな時に目にした宮沢賢治の詩でした。
一青さんは刺激を受けて、詩を書く事で複雑な感情を癒すようになったのでした。
「6歳で父と離れ、8歳で父を亡くしたので。小学生時代は片親であるということに対して強いコンプレックスみたいなものを抱いていた気がします。父の日とか、両親が集まるようなイベントのときに、なんでうちは親戚の叔母が来るんだろう? って。その頃の『なんで私にはお父さんがいないんだろう?』という気持ちが、『なんで私は生きてるんだろう?』という問いまでたどり着いて、私は詩を書き始めました」
その後中学、高校は森村学園に進学。
バスケットボールと美術部を兼部し、生徒会では書記をつとめるまでアクティブに成長しましたが、高校生の時に母親もまたがんで亡くしてしまいます。
財閥の出身で台湾と日本を行き来した両親の人生も苦労が多いものでしたが、一青窈さんの生い立ちもなかなか壮絶なものですね。
しかし両親亡き後、半年の浪人期間を経て、AO入試で慶應義塾大学環境情報学部に進学しているので経済的には恵まれていたと伺われます。
大学ではアカペラサークルに所属し、そこでゴスペラーズの北山陽一に詩を気に入られたことで歌手活動を開始。
福祉イベントで歌っているところをスカウトされ、プロの歌手として『もらい泣き』でデビューする運びとなりました。
『ハナミズキ』はわずか15年間の夫婦で生き別れた両親が、天国の世界では100年続きますようにと願って作った曲といいます。
一青窈さんの、哀しくも強い生命力を感じさせる詩は自身の生い立ちや寂しさ、その中で生き抜いてきた強さが表現されていると考えられます。
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