三屋裕子、現在の仕事は理事や取締役。病気で痩せた噂はデマ&若い頃から美人

バレーボール全日本代表として、1984年に開催されたロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得された三屋裕子(みつやゆうこ)さん。

引退後は、教員や会社経営のほか、日本バスケットボール協会会長を務めるなど、多忙な日々を過ごされています。

テレビ出演などの機会も多いことから、少し瘦せられたときには病気が噂されてしまう注目度の高さです。

そこで今回は、三屋さんの現在について、そして、噂された病気や美人と評判だった若い頃の話を振り返っていきます。

三屋裕子のプロフィール

愛称:サイ

本名:三屋裕子

生年月日:1958年(昭和33年)7月29日

身長:177cm

出身地:福井県勝山市

最終学歴:筑波大学大学院体育学研究科修了

三屋裕子の現在、引退後の肩書きは10を超える

ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得したあと、引退された三屋さんですが、現在はバレーボールに関するもの関しないもの合わせて、10を超える肩書を持たれているようです。

バレーボールを始めた中学から、現在のご活動に至るまでを追っていきます。

小学6年生ですでに身長170cmだったという三屋さんは、出身地である福井県勝山市の中学校でバレーボールを始められました。


そして、高校は東京都にある女子バレーの名門・八王子実践高等学校に進まれています。

数年で全国的に注目される選手に成長されたことがわかりますね。

八王子実践出身のバレーボール選手は、三屋さんの他にも、大林素子さんや多治見麻子さん、狩野舞子さんなど日本を代表するそうそうたる顔ぶれです。

大学は、筑波大学体育専門学群に進学し、ユニバーシアードには3回出場されています。

そのうち、1979年には銀メダルを獲得されています。

しかし、大学4年生のときのモスクワオリンピックは、日本が出場をボイコットしたため、初のオリンピック出場は叶わず、かなり悔しい想いをされたようです。

筑波大学を卒業後の1981年に日立女子バレーボール部に入部されました。

日立でのプレーもさることながら、全日本代表でもセンタープレイヤーの主軸選手として、そして、チームの顔の一人としてご活躍されました。

1983年にはアジア選手権で優勝、1984年のロサンゼルスオリンピックでは銅メダルを獲得されています。

当時の人気はすごいものがありましたよね。

引退後は、国学院高等学校の教員を経て、学習院大学の助手・講師をしながら、バレー部の指導や全日本ジュニアチームのコーチも務められていました。

1990年には筑波スポーツ科学研究所の主任研究員になられ、1992年には筑波大学大学院に進学され、学ぶことも続けられました。

その後、就任された筑波スポーツ科学研究所の副所長は2023年現在も続けていらっしゃいます。

そのほかでは、女性下着の訪問販売をする株式会社シャルレの社長就任、日本プロサッカーリーグ理事、日本バレーボール協会理事など、三屋さんの活動の範囲はとどまるところを知りません。

三屋さんの引退後の経歴で最も驚かされたのは、日本バスケットボール協会会長への就任だったのではないでしょうか。

元バレーボールの選手が、なぜバスケットボール?と疑問を持たれた方も多いと思われます。


背景には、前任である川渕三郎さんの推薦などがあったようですね。

スポーツ界のみならず、複数の企業の社外取締役などを歴任されてきたのは、三屋さんの能力とお人柄に理由がありそうです。

病気で痩せた噂はデマ

引退後も多忙を極める三屋さんに病気の噂がでましたが、どうやらデマであったようです。

スポーツ選手は現役を引退すると、運動量が減るものの、食事量は現役のころのままで太ってしまう方がいらっしゃいます。

しかし、多忙を極める三屋さんは、年齢を重ねるたびにスリムになられていく印象がありました。

そのため、痩せた=病気では?という噂がでてしまったようです。

現役時代、選手の中でもスマートであった三屋さんですが、ラーメンと天津丼、餃子をペロッと平らげていたそうで、一緒に食事をしていた他の選手の分も食べていたのだとか。

当然、現役のときは運動量が多くカロリーの消費も多かったでしょうが、食べてもあまり太らない体質の方かもしれません。

また、コロナ禍での発言から病気と結びつけられた可能性もあります。

2020年には、バスケットで日本を元気にしたいという想いから、無観客でのイベント開催を決定するなどリスクの不安を抱えながらもコロナに立ち向かう挑戦を続けられました。

2022年には、日本テレビ「真相報道 バンキシャ!」に出演され、第7波の感染が拡大するなかでご自身の考え方を変えたという話をされています。

「風邪やインフルエンザのように飲めば大丈夫っていう薬が今のところないじゃないですか。だとしたら、ここまで広がってきたら感染するのって防げないっていうふうに私は今、考え方を変えて」

こういった発言を三屋さんがコロナに感染したと勘違いして、病気の噂につながったのかもしれません。

若い頃は美人バレーボール選手として人気を集めた

三屋さんは、現役時代、プレーのみならず、その美しいルックスからも人気を集めました。


当時、バレーボールは大人気で試合のチケットを購入するために徹夜で並ぶ人たちがいたほどでした。

2012年にBS朝日で放送された「SUZUKI presents 極上空間 小さなクルマ、大きな未来。」では、1年先輩の丸山由美(旧姓江上)さんと現役時代の裏話も話されていました。

お二人が揃って出場されたロサンゼルスオリンピックの結果は銅メダル。

ものすごい結果にもかかわらず、それまでの日本女子バレーボールのオリンピックでの成績は、金か銀しかなかったため「史上最低の銅メダル」と批判されたときの話にも及びました。

最後の瞬間、後ろから中田と丸山のブロックをはじいて、落ちたら終わりか…とスローモーションのようにずっと見ていた自分がいたことをまだ覚えている

お二人とも本当に悔しかったのが伝わってきます。

「ニッポン、チャチャチャ」と応援していたファンの方にとって垂涎ものの貴重な番組でしたね。

ちなみに、日本チームを応援するときに使われる「ニッポン、チャチャチャ」が、バレーボールでも使われるようになった発端は三屋さんにありました。

1981年11月13日に行われたワールドカップ女子第5戦の日本対アメリカ戦でのこと。

三屋さんがアタックに踏み切った際、コート上の汗で滑り、腰を強打されました。

その後も痛みに耐えながらプレーを続ける三屋さんを応援するために会場内に「ニッポン、チャチャチャ」の大コールが起こったのが始まりであったそうです。

ファンが黙って見守れないほど、鬼気迫るプレーだったのでしょう。

三屋さんの真面目で前向きな頑張りは現在のご活躍にも引き継がれているようです。


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