個性と実力を兼ね備える俳優・佐野史郎(さのしろう)さん。
そんな彼の若い頃といえばやはり『ずっとあなたが好きだった』の冬彦役です。
佐野さんの代表作となった同作のことや放映された当時のエピソードなどを探ってみました。
また、実家は病院であるという佐野さんの兄弟や両親についても一緒にご紹介するので、ぜひ最後までお付き合いください。
佐野史郎のプロフィール
愛称:不明
本名:佐野史郎
生年月日:1955年(昭和20年)3月4日
身長:175cm
出身地:島根県松江市
最終学歴:島根県立松江南高等学校
所属事務所:mewgull
佐野史郎、若い頃は冬彦さんで話題
若い頃の佐野史郎さんといえば何と言っても冬彦さんでしょう。
佐野さんは故郷から上京後、劇団シェイクスピア・シアター・劇団状況劇場などに所属しながら役者の道を進みます。
1986年には映画『夢見るように眠りたい』で映画デビューを果たしました。
しかし、その後すぐに人気俳優になったとは言い難く、しばらくは下積みと呼べる時代が続きます。
そんな佐野さんですが1988年『ぼくらの七日間戦争』や1989年『その男、凶暴につき』などに出演したころから徐々に注目を集めるようになりました。
そうして訪れたのが、ブレイクのきっかけとなる作品『ずっとあなたが好きだった』への出演です。
同作は1992年に放映されたドラマで、佐野さんは桂田冬彦役という東大卒エリートでマザコンという特殊な役を演じました。
ドラマは回を追うごとに視聴率を上げていき、最終回は30%を越えるヒットに、佐野史郎さん自身も役者としてブレイクを果たしたのです。
その短期間でのブレイクぶりを物語るエピソードがあるのでご紹介しましょう。
佐野さんは、ドラマの撮影が始まった最初の頃は電車に乗ってスタジオへ通っていたそうです。
しかし、回が進むうちに注目が高まり、しまいには佐野さんが電車に乗ると騒ぎが起こり他の乗客に迷惑をかけるレベルにまでなったといいます。
そのためプロデューサーに「電車に乗るな」といわれてしまう程だったというので、当時冬彦さんがどれだけ話題になっていたかがわかりますね。
また、この頃から世間一般でマザコン男性のことを冬彦さんと呼ぶようになったり、同年の新語・流行語大賞に「冬彦さん」が選ばれたりとまさに社会現象を巻き起こしたのです。
ところで、下手したら自身のイメージも落ちてしまいそうなくらいエキセントリックな冬彦役ですが、佐野さんはこの役を演じるにあたって迷いはなかったのでしょうか。
これに関して佐野さんはインタビューで「役者の仕事は物語を生きること」であり「どう扱われても構わない」と割り切った様子です。
佐野さんが冬彦のような好感度が高いとは言えない役でブレイクできた背景には、腹を括ってクレイジーな役を演じきった役者魂があったのではないでしょうか。
野音ライブの興奮も覚めやらない今日でしたが、今週金曜日に大阪の山本能楽堂で開催される佐野史郎&山本恭司『小泉八雲朗読のしらべ』のリハーサルをしてきました。
サノもすっかり元気な様子で安心♪
凄いパフォーマンスをお見せしますよ〜😄👍チケット: https://t.co/qXH0vd11pR pic.twitter.com/RywdkyDuF6
— Kyoji Yamamoto(山本恭司) (@KyojiTWJ) August 22, 2023
佐野史郎の実家は病院
佐野史郎さんの実家は島根県松江市にある病院です。
この実家の病院はなんと江戸時代末期である元治元年(1864年)に開業、2023年現在も佐野内科循環器科医院として存続しています。
佐野さんは長男だったため、もともとは5代目としてこの医院を継ぐことを期待されていました。
本人も小学校から高校1年時まではそのプレッシャーを感じながら成長したといいます。
しかし、理系科目が苦手だった佐野さんは高校2年に進級する段階で、成績順に順番が付けられるという能力別編成で文系クラスに入ることになりました。
この時文系クラスに入れられ、医学部に進めないことが決定したことで、結果的に家業の縛りから解放されたといいます。
その後史郎さんはもともと興味のあった文学・音楽・芝居に熱中するようになったのです。
もし、佐野さんが成績優秀で理系科目が得意だったら役者・佐野史郎は誕生しなかったのですね。
【シネマ尾道クラウドファンディング応援メッセージ】 #佐野史郎 さんから応援メッセージが届きました!小津安二郎監督生誕記念イベントや『千年の愉楽』など何度も尾道に駆けつけてくださいました。佐野さん、ありがとうございます。ご支援ご声援の程よろしくお願いします!https://t.co/zr5mlEnqcp pic.twitter.com/7ZSsyK2nGS
— シネマ尾道公式 (@onomichieigakan) September 11, 2023
佐野史郎の兄弟
佐野史郎さんには4歳年下の弟がいることがわかっています。
史郎さんは山梨で出生していますが、弟はその後移り住んだ東京で誕生したようです。
史郎さんは先祖代々続く病院を営む一家で、医者ばかりという親戚に囲まれ、家業の跡取り息子として育ちました。
しかし、成績が芳しくなかったっため医学部に行けなくなり、跡継ぎ候補ではなくなったといいます。
一方の弟は成績が優秀だったということで、病院の跡継ぎは弟が引き受けることになったのです。
史郎さんは、自分が勉強ができなかったせいで弟に家業を押し付ける形となってしまったということで、未だに弟には頭が上がらないと明かしたことがあります。
弟も家業を継ぐプレッシャーはあったでしょうし、今は病院経営で忙しいでしょうが、きっと役者として成功した兄を応援しているはずですよね。
佐野史郎の両親
佐野史郎さんは医者の父親と写真館の娘である母親との間に生まれています。
両親は父親の実家の病院を守りながら史郎さんら兄弟を育てたようです。
父親は多趣味の医師
父親は代々続く医院の家に生まれ、自らも医師として働いていました。
その一方でカメラが趣味だったといい、佐野家には両親の新婚時代や息子たちの子供時代の写真も多く残っているといいます。
今やスマホで写真など撮り放題の時代ですが、佐野さんの時代で両親の若い頃や自身の子供時代の写真がたくさん残っているというのは珍しいかもしれませんね。
父親は写真以外にもバイオリン・クラシック音楽・機械いじりなども好んだという趣味人でした。
医者一家で育ったこの父は、息子・史郎さんにも医者を継ぐようにいって育てましたが、高校で史郎さんが医者にならないことがわかってからは特に何もいわなかったといいます。
史郎さんはこれについて、「父自身も本来は趣味人なところがあったので、息子が医師にならず芸術の道へ進んだことに関してもしょうがないなと許容することができたのでは」といったことがありました。
また、史郎さんが『ずっとあなたが好きっだった』の冬彦役で注目を集めた際も、「どんな世界でも極めるのは大事な事」と喜んでくれたのだとか。
父親は、自分にはできなかった自由な生き方を実現した息子を、羨ましくそして誇らしく思っていたのではないでしょうか。
母親は写真館の娘
母親の方は実家が出雲大社専属という写真館の娘です。
そのため、父親と同じく母親も写真には造形の深い方だったといえます。
また、文学が好きな方だったようです。
佐野さんの両親はどちらも芸術に関心のある方だったのですね。
山梨・東京・松江での生活
両親はどちらも島根県の出身ですが、父の仕事の都合で結婚と同時に山梨県山梨市へ引っ越します。
そこで長男・史郎さんが誕生し、その後すぐに引っ越した東京で次男が誕生しました。
東京での生活は、父親は仕事が忙しいながらも心には余裕があったようで、家族4人の穏やかなものだったようです。
しかし、父が実家の稼業を継ぐために一家で松江に戻ってからは生活が一変します。
祖父母・叔母・住み込みの看護師さんがいる大所帯での暮らしがスタートするのです。
母親はまだ幼い子供たちを育てながら、大所帯での食事づくりに追われ大忙しで休む暇もありません。
父親も父親で医院の患者が多くて忙しく、また大家族での生活は何かと慌ただしかったためか、両親の関係がぎくしゃくしていた時期もあったようです。
病院の一家に生まれて家業を継ぐと聞くと、裕福でいい暮らしが保証されていて羨ましいなどと思いがちですが、佐野さんの両親の話を聞くと彼らには彼らなりの苦労があることがわかりますね。
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