中嶋悟の自宅は愛知、妻はあけみ夫人。実家は農家。現在(2024)社長&若い頃の功績がすごい

日本人初のフルタイムF1ドライバーとなった中嶋悟(なかじまさとる)さん。

レーサー引退後はチーム監督などを務め、日本のモータースポーツの発展に尽くしています。

今回は、中嶋悟さんの自宅や実家、そして若い頃についてお伝えします。

中嶋悟のプロフィール

愛称:雨のナカジマ

本名:中嶋悟

生年月日:1953年(昭和28年)2月23日

身長:165cm

出身地:愛知県岡崎市

最終学歴:名城大学附属高等学校

所属事務所:有限会社中嶋企画(代表取締役社長)

中嶋悟の自宅は愛知にある

中嶋さんの自宅は、愛知県にあります。

F1ドライバーとして世界を転戦していた頃は、ロンドン郊外に自宅を構えていました。

家族を呼び寄せ一家で暮らしており、過去の映像では幼い頃の中嶋一貴さんや妻あけみ夫人の姿も確認できます。


1991年にレーシングドライバーを引退してからは、ナカジマレーシングの監督として日本国内で活躍。

日本に帰ってからは、愛知県の自宅を生活の拠点にしているものと思われます。

2022年のインタビューでも、自宅は愛知にあると明言しています。

70歳近くになっても、愛知から東京や岡山まで自分の運転で移動しているとのこと。

初めて新車を手に入れた時は、嬉しくて1年間で1000リットルものガソリンを使うほど運転していたという中嶋悟さん。

いくつになっても運転が好きな気持ちは変わっていないのでしょうね。

日本人初のフルタイムF1ドライバーということで国民的人気となり、チーム監督としても成功した中嶋悟さん。

相当な収入を得ているようで、自宅は豪邸とのことです。

真偽は不明ですが、自宅の地下には本物のレーシングカーが保管されているという噂もあります。

中嶋悟の妻はあけみ夫人

中嶋さんの妻の名前はあけみさん。

結婚した時期や年齢、結婚前にどのような職業に就いていたのかは不明です。

積極的にメディアに露出し、自身のことを語るような人物ではないようです。

中嶋悟さん自身も、妻について語ることはほとんどありませんでした。

夫が現役F1ドライバーだった頃は、夫婦揃ってインタビューに答えていたりもしています。


1987年頃のインタビューでは、夫に対して「子供をまったく叱らない」「子供と友達みたい」と語っていました。

夫婦間の雰囲気も穏やかなものだったので、仲も良好のようでした。

2024年現在まで、目立ったスキャンダルもありません。

いつまでも元気で、素敵な夫婦でいて欲しいですね。

中嶋悟の実家は300年以上続く農家だった

中嶋さんの出身は、愛知県岡崎市。

実家は農家で、米やタバコ、養蚕などを行っていたそうです。

江戸時代から続く歴史ある農家だったそうで、納屋には徳川家からいただいた火縄銃などが置かれていたとのこと。

中嶋悟さんには2人の姉と1人の兄がいました。

兄の名前は正悟さんといい、地元岡崎市で「中嶋石油」というガソリンスタンドを開設しています。

2024年現在も、中嶋石油は出光稲熊サービスステーションとして営業中です。

ただし正悟さんはすでに亡くなっているようで、経営は息子さんが引き継いでいるとのこと。

テレビなどで紹介されたこともあり、モータースポーツファンにはお馴染みのガソリンスタンドです。

中嶋悟は現在(2024)中嶋企画代表取締役社長

1991年にF1ドライバーを引退した後は、ナカジマレーシングの監督として国内で活躍した中嶋さん。

ナカジマレーシングは、若手の育成に積極的なチーム。


かつては高木虎之助さんや武藤英紀さんなど世界で活躍する日本人ドライバーを輩出しました。

2024年で71歳の中嶋悟さん。

ナカジマレーシングも創立40周年を迎える節目の年となりました。

伊沢拓也さんが新しく監督に就任、新しい体勢でさらなる飛躍を目指しています。

中嶋悟、若い頃の活躍が日本にF1を根付かせた

F1という競技を日本に根付かせたのは、中嶋さんの活躍があったからといっても過言ではないでしょう。

現役当時の人気は絶大で、CMなどテレビへの出演はもちろん、名前を冠したゲームソフトが発売されたり、「悲しき水中翼船」で歌手デビューまで果たしています。

中嶋悟さんとF1との関わりは1970年代までさかのぼります。

日本に初めてF1がやってきたのは1976年、富士スピードウェイで開催された「F1世界選手権イン・ジャパン」です。

世界トップクラスのマシンやドライバーがやってくるということで、大きな話題となりました。

当時すでにレース活動をしていた中嶋悟さんも、このレースを観戦していたそうです。

豪雨の中行われたレースで、マクラーレンを駆るジェームス・ハントさんの常識外れな走りに驚かされたと語っています。

1980年代前半は国内外のF2で活躍、その後ホンダとの縁もあり34歳でF1デビューした中嶋悟さん。

ドライビングテクニックは当時のトップドライバーとそん色ないレベルにありましたが、体力不足やコースに慣れるための時間がなかったことなどが原因でF2時代のような圧倒的な速さは見せられませんでした。

中嶋悟さんのF1におけるハイライトは、1989年の最終戦オーストラリアGPでしょう。


当時所属していたロータスは低迷期で、ワールドチャンピオンの腕をもってしても予選落ちしてしまうほどマシンは悲惨な状態でした。

オーストラリアGPでも、中嶋悟さんは予選23位と後方からのスタート。

しかしレースが始まると、水しぶきで前がほとんど見えないにも関わらず圧倒的な走りを披露。

多くのマシンがスピンしてまともに走れない状況にも関わらず、中盤には4位に浮上します。

さらにレース中最も早いタイム「ファステストラップ」も記録して3位を猛追。

圧倒的に劣るマシンで素晴らしい走りを見せる中嶋悟さんに、世界中が熱狂します。

終盤になってエンジンにトラブルが発生したためペースは落ちてしまいましたが、自己ベストタイの4位でフィニッシュ。

レースを終えてマシンを降りた後、満足げな表情でイヤープラグを投げ捨てる姿が印象的でした。

この走りを見て、あのジェームス・ハントさんも「サトルは全戦雨ならワールドチャンピオンを狙える」と評価するようになります。

辛口で知られる元ワールドチャンピオンも認めざるを得ないほど、凄まじい走りだったのです。

しかし、後に中嶋悟さんはジェームス・ハントさんを指して「あんまり好きなオヤジじゃなかった」と漏らしています。

常識外れな走りは認めつつも、一人の人間としてはあまり良い印象を持っていなかった様子。

F1参戦初期はタクシードライバーだのと散々こき下ろされていましたので、当然のことかもしれませんね。

その後1991年を最後にF1を引退。

1990年以降は中段グループが定位置となっていましたが、ファンからは常に熱い声援が送られていました。

社会現象と言えるほど人気となった要因は2つ考えられます。

1つは日本人初のフルタイムF1ドライバーということで話題性があったこと、もう1つは中嶋悟さん自身の魅力です。

インタビューなどでは多くを語らず、どこか陰のある雰囲気が印象的でした。


黙々と目の前の仕事をこなす、いわゆる日本人らしい姿に多くの人が親近感を持ったのです。

もし中嶋悟さんが違ったキャラクターの人物だったら、日本人にとってF1はずっと遠い存在のままだったかもしれません。

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