F1ドライバーとして、そしてレーシングチームの監督として活躍した鈴木亜久里(すずきあぐり)さん。
史上初の純日本製チーム「スーパーアグリ」のF1参戦は、日本のモータースポーツファンを中心に注目されました。
今回は、鈴木亜久里さんの若い頃や実家についての情報をお伝えします。
鈴木亜久里のプロフィール
愛称:不屈のポジティブ・キング、走る有言実行男
本名:鈴木亜久里
生年月日:1960年(昭和35年)9月8日
身長:180cm
出身地:東京都板橋区
最終学歴:城西大学理学部中退
所属事務所:株式会社アルネックス代表取締役
波乱万丈のF1人生だった若い頃の鈴木亜久里
1990年のF1日本グランプリで、日本人として初めて3位表彰台を獲得した鈴木さん。
日本の鈴鹿で日本人が表彰台に上がるという歴史的快挙に、日本中が盛り上がりました。
しかし、そのF1人生は波乱万丈でした。
日本人初表彰台を獲得する前年の1989年、ザクスピード・ヤマハというチームからデビューした鈴木亜久里さん。
しかし当時のザクスピードのレベルは相当に酷く、真っすぐ走ることすら困難なマシンしか作れませんでした。
信頼性も低く、満足に周回を重ねることすらできない始末。
ハンガリーグランプリの予備予選では、ライバルチームのフィリップ・アリオーさんに「お前たちの車は遅すぎて邪魔だ」と詰め寄られる屈辱も味わいます。
結果的に全戦予備予選落ちという不名誉な記録を作ってしまう鈴木亜久里さん。
翌年表彰台を獲得するほど飛躍するなど、この時は想像もできなかったでしょうね。
表彰台獲得の波に乗り、1991年はさらなる飛躍を期待されました。
しかし、不運は突然やってきます。
開幕前に、前年のコンストラクターズポイントをはく奪されるという処分を下されてしまうのです。
バブル景気も崩壊してスポンサー離れも進み、チームは突然資金難に陥ってしまいます。
エンジンも非力なものを使用せねばならなくなり、後半戦は予選通過すらままなりませんでした。
1992年からはエースドライバーとしてフットワーク・無限ホンダに移籍。
チーム体制が整ったことで活躍が期待されましたが、監督との確執やマシンとの相性の悪さなどが原因で成績は低迷。
レギュラードライバーの座を失ってしまった1994年からは、ジョーダンやリジェからスポット参戦を繰り返します。
光る走りは見せてくれましたが、若手の台頭などにより関係者にインパクトを残すことはできませんでした。
1995年をもって引退しようと決意した鈴木亜久里さん。
実は35歳でドライバーは引退することを、ずっと以前から決めていたと後日語っています。
最後の母国グランプリとなる鈴鹿には、これまでにない熱意を持って挑戦。
しかし予選で大クラッシュを喫し重傷を負ってしまい、予定していた引退会見も行えずF1から姿を消すことになります。
全戦予備予選落ちから表彰台獲得、監督との確執や契約問題など山あり谷ありのF1人生でした。
ちなみに絶頂期だった1990年、日本グランプリ前にトップチームのベネトンと契約していたそうです。
スポンサー契約などの関係で移籍は実現しませんでしたが、翌年のラルースの不調を考えるとベネトンで走る鈴木亜久里さんの姿を見たかったところです。
F1最後の年となった1995年、無限ホンダエンジンを目当てに近寄ってきたリジェとの契約で揉めたのもドライバーとしては不運でした。
政治的な駆け引きや不運に足を引っ張られてしまった感のある鈴木亜久里さんのF1人生。
もし1990年以降も満足な体勢で参戦し続けていたら、違った結果を残していたかもしれませんね。
鈴木亜久里の実家はカートショップを経営していた
鈴木さんの実家は、かつて「ビック」というカートショップを経営していました。
また、所沢サーキットというレース場を経営していたという話もあります。
所沢サーキットは1964年の東京オリンピックでクレー射撃場で使用された場所にできたサーキット。
鈴木亜久里さんの実家が経営していたかどうかは不明ですが、このサーキットでカートの腕を磨いていたのはほぼ間違いないようです。
ダートコースも備わっていて、オフロードバイクで走っている姿を目撃したという人もいます。
鈴木亜久里さんは所沢市立東中学校の卒業生。
よって実家の場所は、おそらく埼玉県の所沢市でしょう。
ちなみにカートショップ「ビック」も所沢サーキットも、2023年現在は残念ながら閉業しています。
鈴木亜久里の父親はハーフ
鈴木さんは、父・正士さんがフランス人のハーフです。
よって鈴木亜久里さん自身はハーフではなく、クォーターということになります。
目鼻立ちがハッキリとした顔立ち故に、ハーフと思われることが多い鈴木亜久里さん。
顔立ちだけではなく立ち振る舞いも、日本人離れしたものを持っていました。
1982年にワールドチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグさんは、鈴木亜久里さんに対して当時の日本人の中では比較的国際感覚があるドライバーだと評しています。
同時期に活躍していた中嶋悟さんは多くを語らず、寡黙で職人的な雰囲気が特徴でした。
不満があっても表に出さない、いわゆる日本人的な姿に自分を重ねた人も多かったようです。
対する鈴木亜久里さんは、言いたいことは言うタイプ。
インタビューの様子などから、よく想像される日本人的な雰囲気ではないと言われていました。
かの中嶋悟さんも、鈴木亜久里さんに対して「当時の言葉で言えば新人類、自分達の世代とは違う感覚を持っていた」と後年語っています。
ハーフだと言われるのは顔立ちだけではなく、国際的な感性の持ち主だからという点も大きいでしょう。
鈴木亜久里に妹はいない
鈴木さんの兄弟に関する情報はほとんど世に出ていません。
よって推測にはなりますが、妹はいないものと思われます。
父・正士さんは、結婚後かなり早い時期に離婚しているそうです。
母は日本人という以外に情報はなく、名前も不明です。
父・正士さんの告別式には鈴木亜久里さんと明子夫人、そして長男・瑞翔さんが参列したと報じられました。
ホンダの関係者達が参列したとは報じられましたが、ほかの親族が参加したとの報はありません。
ホンダの伊東孝紳社長(57)ら約200人が参列した。
このことからも、兄弟はいない可能性が高いです。
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