売野雅勇、若い頃や現在(2024)の活動。病気はデマ。年収がすごい?天才的センス

売野雅勇(うりのまさお)さんは、1981年の作詞家デビュー以来にほんのポップス界にはなくてはならない作詞家として常に第一線で活躍されています。

そんな売野さんの若い頃や2024年現在についてなど、お伝えします。

売野雅勇のプロフィール

本名:売野雅勇

生年月日:1951年(昭和26年)2月22日

出身地:栃木県足利市

最終学歴:上智大学文学部英文学科卒業

所属事務所:フェブライオ・メッツオ/ DIVINE ディヴァイン

売野雅勇、若い頃や現在(2024)の活動

売野雅勇さんは、若い頃から作詞家を目指して活動をされていたわけではありませんでした。

1974年に上智大学文学部英文学科を卒業し、まず就職活動として受けたのはニッポン放送でした。

音楽はお好きだったそうで、当時ニッポン放送に新しく設立された音楽ディレクター部門の採用面接で、最後の5人にまで残っていたそうです。


ですが、残念ながらその時はご縁がなく、不合格となってしまいました。

ニッポン放送のグループ会社のポニーキャニオンで募集していたディレクターとして推薦されましたが、好きな音楽とは方向性が違っていたそうで辞退されたそうです。

その後、大学時代の先輩で当時既に電通に入社していた石井直さんの勧めで、老舗広告代理店の株式会社萬年社にコピーライターとして入社しました。

コピーライターとしては、主にドッグフードや製菓会社を担当していたそうです。

ですが、全国紙の全面広告という大きな仕事でミスを犯してしまい、解雇されてしまいます。

それから2年半後、「音楽好きのコピーライター募集」という広告を見てすぐに応募し、東急エージェンシーインターナショナルに入社し、CBSソニーレコードの洋楽担当のコピーライターとして働いていました。

ですが、それもわずか9ヶ月後には退職してしまいました。

その後もコピーライターやファッション雑誌の編集などの仕事をしながら生活していましたが、転機が訪れたのは1981年でした。

あるレコード会社のディレクターから「歌詞を書いてみませんか?」という電話をもらい、「はい、やります」と気軽に引き受けたのが作詞家になるきっかけでした。

その時に手がけた楽曲はラッツ&スターの「星屑のダンスホール」でした。

実は売野さんはこの時まで歌詞を書いたことは1度もなかったそうです。

本当の処女作が商業作家としての第1作目になったわけです。

それからは1982年の中森明菜さんの楽曲「少女A」や、チェッカーズの数々のシングル曲で、作詞家としての地位を確固たるものとしました。

当時人気アイドルやアーティストは、3ヶ月に1曲のようなハイペースで新曲をリリースしていたような時代です。


売野さんも楽曲に関して「消費されていく物」という感覚を持っていたそうです。

そういった意味では、基本的にはキャンペーン中のみ使用されるものを書く「コピーライター」という前職は、あの時代の作詞家にとして活動するには非常に活きたのではないでしょうか。

時は過ぎて2024年現在、若い世代で昭和歌謡が流行っており、当然売野さんが手がけた楽曲が多くの人に聞かれています。

そのことに関して、当時は消費されていくものを書いていた感覚だったのでこんなに長く聞いてもらえるとは思っていなかった、と語っていました。

2023年は作詞家デビュー40周年を記念して、多くの媒体でインタビューを受けたり、メディアに多く露出されました。

また、2023年7月12日には中西圭三さんとのタッグで生み出した名曲ばかりを集めたアルバム「素敵なことは変わらない-売野雅勇YEARS BEST-」と、様々なアーティストに提供した楽曲を集めた「STRANGE PARADISE-売野雅勇作品集」が同時リリースされました。

近年は1980年代の日本のポップスは、世界中で聞かれるようになっています。

売野さんが若かりしに書いた楽曲は、こからも多くの人に愛され続けていくでしょう。

病気で休業はデマ

売野雅勇さんが病気で休業されているのでは、という噂がありますが、それは間違いです。

2024年には73歳を迎えらえれる売野さんですが、これまでに大病を患ったという情報はありません。

作詞家という職業柄、常にメディアに姿を見せるわけではない売野さん。

「近頃見ないな」と思った方が休業していると思われたのかもしれません。

20代や30代の頃は、タバコとコーヒーが必需品。


夜の9時から仕事を始めて仕事を終えるのは朝方といった生活をしていたそうです。

ですが、40代を迎えた頃に体重が増加し、それがきっかけで健康に気を使うようになったそうです。

当時ヘルシーだと流行っていたスローフードを取り入れ、ごはんは玄米を食べたそうです。

そして50代に入ってからさらに健康志向が増し、筋トレやストレッチをするようになったそうです。

どんな仕事でも体が資本。

これからも健康で素晴らしい作品をたくさん生み出してほしいですね。

年収は高い?天才的なセンスが話題

売野雅勇さんは、これまでにご自身の年収について言及されたことはないので、正確な数字は明らかになっていません。

ですが、これまでの数々の名曲を考えると、1980年代から1990年代の全盛期では数億円の年収があったのはほぼ確実でしょう。

また、これまで制作した楽曲の数をざっと調べただけでも600曲あまりあることがわかりました。

それらの1曲1曲すべてが現在も印税を生み出しています。

ですので、今売野さんが新しく楽曲を制作をしなくとも、少なくとも数千万円の年収は手にできるのではないでしょうか。


それも売野さんの天才的な作詞センスが多くの人の心を掴んだからです。

キラキラした若者の青春の描写の中に切なさや寂しさを入れ込んだ売野さんの歌詞は、非常に普遍的で、どんな時代の若者の心にも寄り添い、あらゆる時代の大人たちに懐かしい感覚を呼び起こさせるのでしょう。

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